第十四話 夜の電話と、終わる世界で君と見る星
その日の夜、夜の十時に、結から電話がかかってきた。
「お、陽菜。今ちょっといい?」
「いるよ。どうしたの」
結の声は、拍子抜けするほど普通だった。明日も学校で購買部のパンを争奪するような、いつもの明るい結の声だった。
「最近さ、色々変なことが起きてるじゃん。私の体のことも含めて」
「……うん」
「陽菜は、たぶん何か知ってること、あるんだよね」
私は、息を止めた。スマホを握る手にじわりと汗をかく。
「何の話?」
「アハハ、嘘が下手なの、昔から全然変わってないね」
電話の向こうで、結がベッドに寝転がるような衣擦れの音がした。
「話してくれなくていいよ。陽菜が私に話さないのには、きっと陽菜なりの優しい理由があるってわかってるから。ただ――一個だけ聞いていい?」
「……うん」
「私、消えるの?」
呼吸が、完全に止まった。
「消えない!」
私は、叫ぶように言った。
「消えない。絶対に消えないよ、ゆい」
「でも、変わる?」
一拍の、残酷な間があった。
「……変わるかも、しれない。物の感じ方とか、見え方とか」
「そっか」
結は、ふうっと小さく息を吐いた。
「ねえ陽菜、私さ、最近すっごい綺麗なんだよ、世界が」
結の声が、少しだけ夢見るように、ふんわりと柔らかくなった。
「草の匂いがして、音にカラフルな色があって、空気に温度以外の『何か』の層があって――教室の窓から差し込む夕方の光が、なんか何億年分もの時間が積み重なってるみたいに見えるの」
「……うん」
「怖くないんだよ。本当に。ただ――陽菜とこうやって、普通の声で話せてる今が、すごく好きだな、って思う。このまま、ずっと話し続けたいなーって思う」
喉の奥が、焼け火箸を押し当てられたように熱くなった。視界が急速にぼやけていく。
「話せるよ」
私は涙声を必死に押し殺して言った。
「ゆいが見たいもの、感じたもの、全部私に話して。私、一生聞くから」
「うん、約束ね」
結は明るく言ってから、急に悪戯っぽく笑った。
「あのさ、陽菜。白瀬くんのこと、好きなんでしょ」
唐突な爆弾に、私は言葉を失った。
「……な、なんでいきなり」
「顔見てればわかるよ。陽菜、あの子のこと見るとき、私の夢みたいな顔するんだよ」
「夢みたいな顔って何」
「すっごく、すっごく綺麗なものを大事そうに見てる顔」
電話の向こうで、結が小さく無防備な欠伸をした。
「……なんか……ねむくなってきた。おやすみ、陽菜。明日も学校でね……」
「うん。……おやすみ、ゆい」
電話が切れた。
ツー、ツーという電子音を聞きながら、私はしばらくスマホを胸に押し当てたまま、天井を見つめていた。
泣いた。今度は声を出して、子供みたいに泣いた。
でもそれは――悲しいだけの涙じゃなかった。結が新しい世界を受け入れようとしている強さに対する誇らしさと、彼女の優しさが、ただただ痛かったのだ。
翌日、月曜日の放課後。
研究所に、宇津木博士、蒼、私の三人が集結していた。
博士が、部屋の中央のテーブルに、乱暴に赤ペンで印のつけられた市街地図をバサッと広げた。
「アルゴスのキャンセラー装置の中枢は、ここだ」
博士が指差したのは、市の外れ、私と蒼が手を繋いで帰ったあの倉庫街よりさらに奥にある、巨大な廃工場跡地だった。
「稼働まで、残り三日。装置が起動し、逆位相の波が放たれれば――前兆音は強制的にキャンセルされる。クラスチェンジは最短でも十年単位で遅延、あるいは凍結するだろう」
「……遅延したら、移行が始まってるゆいはどうなるんですか?」
私が核心を聞くと、博士は眼鏡の奥の目をスッと細めた。
「変容の途中で、強引にOSのインストールを止められることになる。脳と肉体に、強烈なシステムエラーと拒絶反応が起きる」
「つまり――」
「死ぬ可能性が極めて高い」
部屋が、氷を打ったように静かになった。
数秒後、蒼が短く口を開いた。
「行く」
「私も行く」と、私がすかさず続けた。
博士が、私たちふたりの顔を交互に見た。狂気の科学者らしからぬ、何かを深く確かめるような目だった。
「……お前たち、理由を聞いていいか。世界を敵に回す理由だ」
私は少し考えてから、真っ直ぐに答えた。
「地球が、私たち人類を連れて行こうとしてるから。私は、それを信じてるからです」
「根拠は」と博士が聞いた。
「私が見た白亜紀の夢。蒼くんが聴いてる音。――そして、新しい世界を『きれいだ』って言った、ゆいの顔です」
博士は、ズレた丸眼鏡の縁を人差し指でゆっくりと押し上げた。
それから――出会ってから初めて、あの皺くちゃの顔をクシャッと綻ばせて、とても柔らかく笑ったのだ。
「合格だ」と博士は言った。
「では――人類の歴史上、最も馬鹿げた反逆の計画を立てようじゃないか」
その日の夜、研究所での作戦会議を終えた私と蒼は、二人で外に出た。
特に「一緒に帰ろう」と打ち合わせたわけじゃなかった。雑居ビルの階段を降りて、並んで歩いていたら、どちらからともなく足が向き、自然と川沿いの土手に出たのだ。
空が、見事に晴れ渡っていた。
街の明かりが少ないせいか、無数の星がクリアに見えた。
私たちは土手の斜面に並んで座った。夏の終わりの、少しだけ冷たさを孕んだ夜風が、私たちの間をすり抜けていく。
しばらく、何も言わなかった。
ふと横を見ると、蒼が首から下げていたイヤーマフを外していた。珍しかった。周囲に車の音などがない夜の土手は、彼にとって一番『地球の音』がクリアに聴こえやすい、ノイズの少ない場所のはずだ。
「……今夜は、どんな音がするの?」
私が膝を抱えながら聞くと、蒼は星空を見上げたまま答えた。
「静かだ」と彼は言った。
「クラスチェンジの前兆音のボルテージは上がってる。でも――そのさらに下の方に、すごく深くて、静かな音がある。ずっとそこにあったはずの音が、今夜は特によく聴こえるんだ」
「それって、いい音?」
「……一番古い音だと思う。生命が始まるずっと前から鳴っている音。地球がただ、そこに存在しているだけの音」
私は、彼の言葉を反芻しながら、夜空に瞬く星を見た。
「恐竜たちも、この音を聴いてたのかな」
「聴いてたと思う。彼らも、これを聴きながら安心したんだと思う」
そのとき、スーッと、流れ星が一本、夜空を横切った。
「あ、見た」と蒼が言った。
「見た」と私も言った。
沈黙が続いた。ひどく心地よい、温かい沈黙だった。
「……怖い?」
不意に、蒼が私の方を見ずに聞いた。
「怖いよ」
私は、強がるのをやめて正直に答えた。
「明日のことも、アルゴスの装置のことも……ゆいのことも、全部怖い」
「うん」
「でも」
私は星を見たまま、言葉を紡いだ。
「君と一緒に、見たい景色があるんだ」
蒼が、ゆっくりと顔を向け、私を見た。
「クラスチェンジが終わった後の空。今と違う色になっちゃうかもしれないし、今と全く同じかもしれない。でも――それを、君と一緒に見たい」
夜風が、足元の草を揺らす音だけがした。
蒼が、ひどく優しい、静かな声で言った。
「……俺も」
それだけだった。
たった三文字。それだけで――私には、もう十分すぎるほどだった。
家に帰ってから、私は机に向かい、真新しいスケッチブックを開いた。
何を描くか、構図なんて決めていなかった。でも、自然と鉛筆を握る手が動いた。
星空だった。
川沿いの土手。並んで座る、スニーカーを履いた二人分の足先。その頭上に広がる、途方もなく広くて古い、無数の星々。
人物の上半身も、顔の表情も描かなかった。
でも――私と彼が、たしかに今日ここにいて、同じ星空を見ていたことだけは、ちゃんと描けた気がした。
スケッチブックをパタンと閉じて、ベッドに横になる。
明日にはアルゴスの廃工場に乗り込むというのに。色んなことがありすぎて絶対に眠れないと思っていたのに、目を閉じるとすぐに泥のような眠りが訪れた。
夢は、見なかった。
たぶん――地球も、今夜だけは私に気を使って、静かに息をひそめてくれていたのだと思う。
明日が来る。
今はただ、それだけで十分だった。




