第十二話 変わらないものと、変わるもの
家に帰ってから、私は泣いた。
両親に聞こえないように、ベッドに潜り込み、枕に顔を強く押し付けて、声を出さずにしゃくり上げた。
悔しかった。
何が悔しいのか、自分でもよくわからなかった。地球が勝手に進化しようとしていることが理不尽で悔しいのか。結が私の手の届かないところへ変わっていくのが悔しいのか。自分に何もできない無力さが悔しいのか。全部がぐちゃぐちゃに混ざって、感情の区別がつかなかった。
結本人は、怖がっていなかった。
むしろ「きれい」と言っていた。「世界が厚くなった」と、新しい世界を肯定していた。
だから――なんで自分がこんなにボロボロ泣いているのかが、わからなかったのだ。
結のために泣いているんじゃないかもしれない。
ふと、そんな冷たくて醜い考えが、頭の隅に浮かんだ。
変わってほしくないのは、私自身のためなんじゃないか。
あの、オカルトな事情なんて何も知らなくて、「陽菜、なんか変じゃない?」と笑って日常に引き戻してくれる、あの結を失いたくないのは――ただ私が、親友がいなくなるのが寂しいだけなんじゃないか。
布団から顔を上げた。
涙で濡れた頬に、部屋の空気がひんやりと触れた。
カーテンの隙間から、窓の外の夜空に浮かぶ丸い月が見えた。
月は、何も変わっていなかった。私が夢で見た白亜紀の空にも、全く同じ月が浮かんでいたはずだ。恐竜たちも、あんなふうに月を見上げたかもしれない。彼らが地球から「卒業」して消えていった後も、月はただ変わらずにそこにあった。
変わらないものがあるから、変わっていくものが怖いのだ。
でも、変わらないものがあるからこそ――変わることを受け入れることができるのかもしれない。
まだ、明確な答えは出なかった。
でも、いつの間にか、私の涙は乾いていた。
翌日の夕方。
私が研究所から一人で帰る道すがら、彼が立っていた。
霧島 司。
彼が私の帰り道に都合よく現れたのは、決して偶然ではないだろう。アルゴスの情報網は、ストーカー顔負けの精度を持っているらしい。
「天羽結さんのことを聞きましたよ」
司は、一切の挨拶を省いて単刀直入に切り出してきた。
「……どこから情報が入るのか、もう驚きもしませんけど」
「だから言ったでしょう。これが、私の危惧していた『淘汰』の始まりです」
彼の声は、夕暮れの空気のように穏やかだった。自分の予言が的中したことを勝ち誇っているわけでも、私を責めているわけでもない、ただ静かな事実の確認だった。
「彼女は、選ばれた側だからまだいい。変容の痛みを乗り越え、移行が完了すれば、次の世界を生きられる。でもね――問題は、移行できない人間の方なんです」
「……移行できない、って」
「新しい地球のOSに適応できずに、バグとして処理され、消去される側です。クラスチェンジのたびに、そういう個体が大量に出る。恐竜たちがそうだったように。現在の人類の九割以上が、その対象になる」
私は、唇を噛み締めて答えなかった。
「あなたはまだ若い。自分の知らない世界に変わっていくことを、どこか『面白い』『ロマンチックだ』と思える年齢だ。でも――適応できず、変われない人間が、どんな絶望の顔をして世界から消えていくか、あなたは直接見たことがありますか?」
六年前の話。彼が、ベッドで手を握っていた最愛の妻が、朝になったら「消えていた」という、あの痛ましい話を思い出して、私は言葉に詰まった。
「私が止めようとしているのは、変化や進化そのものじゃない。人間が、何の選択肢も持たされないまま、理不尽に消去されることを止めようとしているんです。人間の尊厳のためにね」
それは――痛いほどに美しくて、完璧な正義の論理だった。
何も知らない一般人にアンケートを取れば、百人中九十九人が彼に賛同するだろう。
だから、私は彼に怒ることができなかった。
「でも」
私の口から、少し違う言葉がこぼれ落ちた。
「もしも……」
「もしも?」
「もしも――地球が、私たち人類を『消去』しようとしているんじゃなくて、次の世界へ『連れて行こうとしている』のだとしたら?」
司が、完璧な仮面のような表情を、初めてわずかに動かした。
「連れて行く?」
「恐竜が消えたんじゃなくて、彼らの生きた証が次の形に引き継がれたように。私たちも、今の『人間』という形じゃなくなるかもしれないけど、でも、ちゃんと何かが続いていくとしたら」
「……それは」
司は、少しだけ眉をひそめて言った。
「あなたの、ただの感傷的な『希望』ですか。それとも、何らかの『確信』に基づいた事実ですか」
私は、答えられなかった。
それはまだ、私の胸の奥底にある、ただの希望の段階でしかなかったからだ。
「確信になったとき、また話しましょう。時間はありませんがね」
司はそう言って、一切振り返ることなく、夕闇の中へ歩き去っていった。
確信になったとき。
私は、自分の手の中にある心細い希望を、一体どこで確信に変えればいいのだろう。
私は一人、暗くなり始めた帰り道に立ち尽くしていた。




