第十一話 世界の厚みと、変容していく親友
「アルゴスのキャンセラー装置が稼働するまで、あと二週間」
そう宣告されて、さぞハリウッド映画のパニックモノのような、息詰まる緊迫した日々が始まるのかと思いきや。
最初の一週間は、拍子抜けするほど「普通」だった。
もちろん、異変は続いていた。登校中に空が時々、一瞬だけ古代の薄紫にバグったように変色した。学校の中庭のケヤキは、また一夜にして年輪の増産キャンペーンを行い、近所の川は夜中になると青白くエレクトリカルな光を放った。
でも、世界が終わりかけていても、人間というのはとりあえず腹が減るし、眠くなるらしい。
私たちは今まで通り学校に行き、理不尽な小テストに文句を言い、昼休みには購買部の焼きそばパン争奪戦を繰り広げていた。日常という名の慣性は、オカルト現象よりもずっと分厚くてしぶといのだ。
親友の結が「最近なんか変だよ、陽菜」と言い出したのは、その週の木曜日の昼休みだった。
「……何が変なの。寝癖?」
私がタッパー弁当の卵焼きを箸で突きながら聞くと、結はジュースのストローを咥えたまま、じろりと私を見た。
「なんかさー。最近、あの愛想なしの白瀬くんと並んで歩いてるとき、二人の距離が近くない? 物理的にも、空気的にも」
私は、飲み込みかけた卵焼きでむせそうになった。
「そっ、そんなことないよ! 気のせい気のせい。たまたま歩幅が合うだけ」
「ふーん? まあ、そういうことにしておいてあげるけど」
嘘だった。あの夕暮れの倉庫街で不器用に手を繋いでから、たしかに私たち二人の間の「パーソナルスペースの基準値」は大幅にバグを起こしていた。
だが、結が本当に言いたかった「変」は、たぶん私の「恋」の探りじゃなかったのだ。
結は、いつも通りケラケラと笑いながら私をからかっていたけれど――その目が、どこか少しだけ「遠く」を見ていた。
レンズの焦点が、私の顔ではなく、私の後ろにある空間の歪みに合っているような。
その「遠くを見ている」感じが、数日前から結の中に少しずつ増えていることに、私はうすうす気がついていた。
気のせいかもしれない、と思っていた。
……そう、思うことにしていたのだ。
金曜日の放課後。
私が一人でキャンバスに向かっている美術室の引き戸が、ガラリと開いた。
結だった。
珍しい。彼女が自発的に美術室に足を運ぶのは、文化祭の飾り付けを手伝わされるときか、体育祭の看板作りのときくらいだ。
「やっほー。邪魔していい?」
「もうしてるけど。どうしたの?」
結はふらりと部屋に入ってくると、私が棚に並べていた油絵の具のチューブをいくつか手に取って、まじまじと見つめた。
「ちょっとさ」
結は、カドミウムレッドのチューブを私に向けて指差した。
「陽菜、これ、何色に見える?」
「……赤だけど。どう見ても」
「そうだよね。赤だよね。でもさ、私には今日、これを見ると『音』がするんだよね」
私は、筆を洗う手をピタリと止めた。バケツの水に、濁った色が広がっていく。
「……音?」
「うん。なんかね、この赤を見ると、すごく低い音がするの。高い音じゃなくて、ずっと下の方から響いてくる、重たい土みたいな音。……おかしいかな」
彼女の声は、拍子抜けするほど普通だった。狂気や病気の類に怯えているわけじゃなく、むしろ新しいスマホアプリの面白い機能を見つけた子供のように、不思議そうにふんわりと笑っていた。
でも――私の心臓が、ひどく嫌な音を立てて冷たく縮んだ。
色に、音がする。
それは、典型的な「共感覚」の症状だ。
「最近さ」と結は、絵の具を棚に戻しながら続けた。「草の匂いが『聞こえる』ときもあるんだよね。あ、匂いは聞くじゃなくて嗅ぐ、か。でもなんか、鼻じゃなくて耳で匂いを感じるって言えばいいのかな。陽菜が前に描いてた、すごく古い時代の景色の絵みたいな……そんな匂い」
「……それ、いつから」
「一週間くらい前から、かなぁ。最初はすごく薄くて、あー私ちょっと夏バテで疲れてんのかなーって思ったんだけど。最近、ちょっと輪郭がはっきりしてきてさ」
結は窓の外を見た。また、あの遠くを見る目だった。
「怖くはないんだよね、全然。むしろなんか……『きれい』って感じ。世界が、今までよりちょっと分厚くなった感じ、って言えばいいのかな」
世界が、厚くなった。
その言葉が、まるで鋭い針のように私の脳の奥底に突き刺さった。
「……そっか」
私は、必死に平常心を装って言った。
「話してくれて、ありがとうね」
「なにそれ、なんか深刻な顔してるじゃん」
結はアハハと笑った。私も、なんとか顔の筋肉を総動員して笑い返した。ちゃんと自然に笑い返せていたと思う。
でも、放課後、結が帰って一人きりになった美術室で、私の膝は情けないほど小刻みに震えていた。
翌日の土曜日。
私は『ガイア知性研究所』に飛び込み、宇津木博士と蒼に昨日の結の告白をすべて話した。
博士は私の説明を黙って静かに聞いた。途中でチラシの裏に何か数式のようなメモを取り、最後まで聞き終えると――ずり落ちた丸眼鏡をゆっくりと外し、机の上に置いた。
その動作が、お医者さんが不治の病の宣告をする前の合図のように見えて、私の喉がカラカラに乾いた。
「……ある程度、予想していた事態ではあった」
博士は、重苦しい声で言った。
「ただ、一般人に影響が出るのはもう少し後だと思っていたがな」
「どういうことですか」
「天羽結さんは――今、クラスチェンジの『移行波』をもろに受けている。彼女の脳と感覚器官の、根本的なOSの書き換えが始まっているんだ」
「書き換え、って」
「新しい地球のルールに適応するための、生物としての変容だよ。人類の中に、早い段階で環境に順応しようとする個体が出てくることは、過去のクラスチェンジでも地層の記録から推測されていた。彼女は、その選ばれた個体の一人だ」
私は、浅く、短い息を吸った。
「じゃあ……病院に行けば、元に戻せますか?」
博士が、答えなかった。
その重たい沈黙が、何よりの明確な答えだった。
「……戻せないの?」
「戻す、という概念が適切かどうか、という問題がある」
「適切かどうかじゃなくて!」
私の声が、自分でも驚くほどヒステリックに高くなった。
「ゆいが、あの『普通のゆい』のままでいられるかどうかを聞いてるの!」
博士は、騒ぎ立てる私を冷徹な研究者の目で静かに見据えた。
「OSのアップデートを、インストールの途中で強制終了させたらどうなるか、わかるか? システムが完全にクラッシュする。変容を強制的に止めれば、強烈な拒絶反応が起きる。アナフィラキシーショックに近い状態で――最悪、命に関わる」
世界が、足元からぐにゃりと歪んだ気がした。
「逆に言えば、変容が完了すれば、彼女は無事に生き残る。ただし――今の天羽結さんとは、感覚器官の構造が全く別物になる。今と同じ方法では、物事を見たり、聞いたりすることはできなくなるだろう」
「そんなの……」
「彼女の脳が壊れているわけじゃない」
博士は、残酷な事実を必死にコーティングするような言葉を選んだ。
「彼女は、次の形に移行しようとしているんだよ」
深い、泥のような沈黙が落ちた。
私の頭の中は真っ白になり、手は震え、視界が涙で滲みそうになった。
「――陽菜」
そのとき、隣に座っていた蒼が、静かに口を開いた。
私の名前。ただ、それだけ。
でも、その低くて静かな、確かな質量を持った一言が、私がその場で泣き崩れるのを、ぎりぎりのところで止めてくれた。




