第一話 白亜紀の卒業式と、テンプレの転校生
草の匂いがした。
草というより、もっと古い何か――土と水と光が何億年もかけて混ざり合ったような、言葉にならない匂い。
空が、今よりずっと低かった。
ぶ厚い大気の層が目に見えるみたいに、地平線のあたりがうっすら金色に濁っている。鳥が鳴いていた。いや、鳥ではない。あの滑空するような羽の形は、翼竜のそれだ——と、夢の中の私はなぜかすんなり理解できた。
遠くで、何かが横たわっていた。
大きかった。信じられないくらい大きかった。でも怖くなかった。それが不思議だった。あれほど巨大な生き物が地面に伏して、もう動かないのに――なぜかひどく穏やかな光景に見えたのだ。
静かだった。
隕石が衝突するような閃光でも、燃え盛る炎でも、断末魔の叫びでもなかった。
大地が、ゆっくりと息を吸い込んだ。
そしてすべての生き物が――まるで示し合わせたみたいに――大地に額をつけた。
卒業式みたいだ、と夢の中の私は思った。
怖くない。悲しくもない。ただ、とても長い何かが、ここで終わる。そういう、深く澄み切った静けさだった。
空気が、ふっと変わった。
世界が、音もなく次のページをめくった――。
***
ピピピピピピピピ!
うるさい目覚まし時計の音で、私は無理やり現実に引き戻された。
「……はいはい、起きますよっと」
私は毎朝、六時三十分に白亜紀から現代日本へと帰還する。
ベッドの上で手のひらをグーパーと握り込むと、まだ少しだけ、あの金色の空気が指の間にへばりついているような気がした。それを乱暴に払いのけるように、私は勢いよく掛け布団を蹴飛ばした。
白亜紀から帰還した私は、洗面所で顔を洗い、ダイニングでご飯を食べ、指定の制服を着る。
このモーニング・ルーティンはいつもと同じ。変わるのは、私が見る夢の中の時代だけ。
今日は白亜紀で巨大生物の最期を看取ったが、先週はもっと寒々しい世界だったし、その前はよくわからない海の中だった。
何億年も前の海で、魚ともエビとも言えない、前後も上下もよくわからない奇妙な形の生き物たちがフヨフヨと浮いていた。あれはたぶん、カンブリア紀というやつだと思う。
図鑑で見るような大昔の生き物たちが、なぜか私の夢には毎晩リアルに登場するのだ。
もちろん、博士ちゃんでもない私が、そんな数億年前のマイナー生物と顔見知りなわけがないのだけれど。
「ちょっと陽菜、あんたまたリボン曲がってるわよ」
流し台で卵焼き用のフライパンを洗っていた母が、振り返りざまに容赦ない指摘を飛ばしてきた。
「いいよ。こんなの曲がってるうちに入らないし」
「よくない。ほら、アゴを上げて」
無理やり直してもらいながら、私はトーストの最後のひとかけらを口に押し込む。
こういう話を、他人に面白おかしく話せたらどんなに気が楽だろうといつも思う。
「ねえ聞いてよ、昨日の夜、恐竜が絶滅する瞬間に立ち会っちゃってさー」なんて言おうものなら、十中八九ヤバい奴認定される。最悪の場合、また病院に連行されるかもしれない。
実は幼稚園くらいのとき、それをやってエラい目に遭ったのだ。
ほぼ毎朝、太古の出来事をまるでその場に居たかのように話す私を、両親は思い悩んで小児科へ連れて行った。
白衣を着た小太りのお医者さんは、アンパンマンのぬいぐるみを揺らしながら「なるほど〜、睡眠障害の可能性がありますねえ。心のストレスが夢に〜」などと適当な見立てを下した。
当時、アンパンマンはとっくに卒業していて、コマさんラブだった私は、なんだろこの人って醒めた目で見ていたのを覚えている。
それ以来、私は夢の話を誰にもしていない。
唯一、母方のおばあちゃんだけは、私の話を静かに聞いて「それはね、陽菜。この星が見ている夢なんだよ」と、やたらスケールの大きな、それでいて妙に納得のいく言葉をくれた。けれど、そのおばあちゃんも三年前に他界してしまった。
「いってきます」
カバンを手にとって、玄関のドアを開ける。
むっとするような七月の熱気と、けたたましいセミの鳴き声が、容赦なく私の頬をビンタしてきた。
学校に行こう。今日も、ひたすら普通の月曜日だ。
校門をくぐろうとしたところで、私は違和感を感じて不自然に立ち止まった。
校門の少し手前、初夏の日差しを遮る桜の木の根元のあたりに、見知らぬ男子が一人立っていた。うちの高校の制服を着ているから生徒なのは間違いないが、見かけたことのない顔だった。
背が高く、髪は少し長めの暗い色。そして何より、顔に「表情」という概念がすっぽり抜け落ちていた。能面のような無機質な感じでもなく、証明写真をそのまま貼り付けたような奇妙な静けさがあった。
ただ、無愛想なイケメンが立っているだけなら別に珍しくもない。珍しかったのは、その右手に、黒い折り畳み傘がしっかりと握られていたことだ。
私は思わず空を見上げた。
そこには、雲ひとつない真っ青な七月の朝の空が広がっていた。降水確率0パーセントが100パーセントだろう。
……なんで傘?
彼はもしかして、自分を中心とした半径五十センチにだけ局地的なゲリラ豪雨が降る呪いにでもかかっているのだろうか。
男子はこちらを見ていなかった。彼が見ていたのは――空、ではなくて、もっとずっと上というか、遠くというか。うまく説明できないけれど、まるで「この世界じゃない別のチャンネル」の電波を受信しているような、そんな顔だった。
「ひーな! おはよ! 早く行かないとクーラー直撃の特等席取られちゃうよ!」
背後から降ってきた、友人・結のやたらと通る声で、私はハッと我に返った。
振り返ってからもう一度桜の木の下を見ると、男子はもう私の視野から外れていて、気づいたときには校門の人波に紛れてしまっていた。
なんだったんだろう、あの電波系傘男。
ほんの少しだけ、気になった。
一限目のホームルーム。
万年睡眠不足みたいな顔をした担任の森口先生が、気怠げに教卓をペンで叩いて言った。
「えー、今日からウチのクラスに転入生が来ます。お前ら、変にいじったりせず仲良くするように」
クラスがざわついた。
「七月に転入って、時期的に中途半端すぎねえ?」と後ろの席の男子が首を傾げ、隣の席の結は「ねえねえ、イケメンだといいね! さっき校門でヤバいレベルの美形見たんだけど!」と小声でテンションを上げてきた。
私は、あの桜の木の下にいた「電波傘男」のことを思い出しながら、なんとなく予感がしていた。
予感は、見事に的中。
ガラリと前扉が開いて入ってきたのは、あの折り畳み傘の男子だった。
「白瀬蒼です。よろしくお願いします」
……それだけだった。
本当に、見事なまでにそれだけしか言わなかった。
名前と、最低限の定型句。出身地も、趣味も、前の学校の話も、「みんなよろしくね!」という愛想のいい上昇気味のトーンも、何ひとつなかった。
彼の放った言葉があまりにも短く、そして温度が低かったため、クラス全員がどう反応していいかわからず、教室に「ぽかん」とした奇妙な真空地帯が生まれた。
「……以上か?」
見かねた森口先生が、確認するように聞いた。
「以上です」
白瀬くんは、一切の躊躇なく短く答えた。お前は辞世の句でも詠みに来たのか、とツッコみたくなる潔さだった。
結が私の袖をツンツンとつつき、「顔は百点だけど、愛想はマイナス一万点だね」という顔をしてウインクしてきた。
私は、窓側から三列目の、私の斜め前の席に案内された彼をじっと見ていた。
着席して、無駄のない動きでカバンから教科書を出し、黒板を見る。その一連の動作に、やはり感情が全部省略されていた。ロボットのような機械的な動きとも違う。感情がないんじゃなくて、全部どこかの引き出しの奥深くにしまって、鍵をかけてしまったような感じだ。
やがて、一限目の数学の授業が始まった。
数学担当の老教師が黒板に難解な数式を書き連ねていく中、白瀬くんは先生の話など一秒たりとも聞かずに、ずっと窓の外を眺めていた。ただぼんやり見ているというよりは、やはり「何かを受信している」ような目つきだった。
しかし、彼が先生に怒られることはなかった。
なぜなら――不意に「そこ、白瀬。この続きを解いてみろ」と当てられた際、彼は窓の外からゆっくりと視線を戻し、立ち上がり、黒板の式を一瞥しただけで、淀みなく完璧な解答を口にしたからだ。
「……正解だ。まあ、よそ見はほどほどにな」
バツの悪そうに老教師が言うと、白瀬くんは無言でこくりと頷き、また窓の外へと意識を飛ばした。
隣の席の野球部の男子が「なんだこいつ、マンガのキャラかよ」と呆れたように小さく呟いた。
私はなぜか、その白瀬くんの態度が、ひどく気に入らなかった。
彼が天才肌だから嫉妬したわけじゃない。授業態度が悪いと正義感を燃やしたわけでもない。
ただ、彼が窓の外を見つめるその目が、まるで「この教室の出来事なんて、自分には何の関係もない」と、現実世界そのものを舐めてかかっているように見えたからだ。
……なんだか、すごく腹が立つ。
私は手元のシャープペンシルの芯を、意味もなくカチカチと出し入れしながら、斜め前の彼の背中を睨みつけていた。




