7 〜サイラス視点〜
夜の空に、遠く祭りの余韻が漂っている。
提灯がつらなる路地を、ユーリと並んで歩いていた。空気には、どこか甘やかで、掴みきれないぬくもりが広がっている。
「楽しかったですねー、サイラス様!」
無邪気な声は、いつ聞いても自分の胸をくすぐる。
サイラスは曖昧に目をそらしながら、頬の熱を感じていた。
「……人混みは、正直苦手だが……意外と悪くなかった」
相変わらず上手く笑えていない気がする。それでも、ユーリは満足そうに受け止めてくれる。
ふと、彼女が足を止めた。
「そういえば、さっき水笛買ってくれましたよね? 音が出て周りから視線を集めるの苦手じゃないですか?」
どうしてそんなことまで気付くのか。
どき、と胸が跳ねた。
「……いや。お前がうれしそうだったから、つい買ってしまった」
思わず本音をこぼすと、ユーリがふわりと笑った。そのひとつを見て、また自分も不思議と頬が緩む。
「ふふふ、優しいですね」
「……優しいんじゃない。お前に頼まれると、断れないだけだ。……嫌われたくない。できたら、俺に好意を……持って欲しいと」
その言葉は自分でも驚くほど幼く、みっともなかった。本当に、呆れるほど自信のない男だと、心の中で苦笑した。
だけど、ユーリはためらわずに寄り添い、そっと腕を絡めてくる。
「私だって、サイラス様のお願いならどんなことだってちゃんと聞きますから……サイラス様も私に頼ってください。……嬉しい時も、苦しい時も」
一瞬、息が詰まりそうになる。“自分も頼っていい?”誰かからそんなふうに、言われたのは初めてだった。
「なあ……本当に、俺でいいのか」
問いかけは、拭いきれない不安の音色を帯びる。
「サイラス様がいいんです! ……ほかの誰かじゃダメなんです」
その瞳に、一切の迷いはなかった。
サイラスは言葉を飲み込んだ。複雑な想いが胸の奥で渦巻く。
フードの下、ひどく熱くなる顔を隠しながら、静かに彼女の言葉を待つ。
「最初は確かに見た目に惹かれました。でも今は、サイラス様の優しさとか気遣いとか、そういう全てが好きなんです」
そう言い切られると、もうなにも返せなくなる。
信じたい、信じてもいいのか――この刹那だけは、疑うのをやめたかった。
「……それなら、もう逃げずに、お前のそばにいてもいいか?」
勇気を振り絞るみたいに、やっとの思いで口にした。これで最後にしよう、とどこかで思いながら。
するとユーリは、月明かりの中で一輪の花が綻ぶように微笑んだ。
「もちろん! 毎日毎日、好きって言っても足りないくらいですから!」
その笑顔は、闇夜の道を照らす明かりよりも温かく、この世でいちばん美しかった。
彼女が、恥ずかしげもなくサイラスの手をぎゅっと握る。柔らかい手。手のひらから、体温が胸の奥まで伝わってくる。
「そ……そんなにも、か……?」
情けなく揺れる声。それすらも、彼女はからかいもせず、嬉しそうに見つめる。
「もっと言いましょうか? 好き、大好き、愛してる! ……あと、あと――」
「や、やめろ……誰かに聞かれたら、恥ずかしすぎる……!」
本気で戸惑い、顔が真っ赤なのが分かる。
けれど、ユーリは意地悪そうにくすくす笑う。
「えへへ、サイラス様が赤くなってるとこも好きです!」
──まいった、と思う。
どうしてこんなにも愛情を向けてくるのか、どうしてこんな小さなことで胸がいっぱいになるのか。
サイラスは諦めたように、フードの下で小さな微笑を浮かべていた。
「……なんて、手強い女だよ、お前は」
「はい! このまま手をつなぎたいです」
「……しょうがないな。もう、離してやらないからな」
並んだ影が、やわらかくひとつに重なる。
この手をもう二度と離したくない、と今なら言葉にできそうだった。
たとえ世界中を敵に回しても。
月明かりの下、サイラスの心は、あたたかく、静かによろこんでいた。
*
「サイラス様に似た子どもが、たくさんいたら幸せだなあって――」
あの破壊力抜群の言葉を聞いた瞬間、自分でも信じられないほど顔が熱くなった。
もう、限界。本当に一線を超えそうになった。これまで鋼の意志で自分を律してきたのに、彼女の無邪気な甘えは、あまりにも無防備で――ああ、耐えた自分を褒めたい。
(よくこらえた、俺。いま押し倒してたら、全部台無しだったぞ……! )
理性のブレーキをかけたまま、そっと彼女の肩を抱き寄せて言葉を選ぶ。声は震えていたが、たしかな本気がこもっていた。
「……結婚したい。今すぐにでもしたい」
そのひとことで、すべてが変わった。
まるで夢でも見ているみたいだった。
日常のなかでぽつんと灯ったあたたかい火が、急に世界中を照らすような気がした。ユーリが「はい」と静かに頷いたとき、胸の中で何かが弾ける音がした。
それからは早かった。
数日後、話を聞いた女将ミネットや宿の仲間たち、村の人々が大騒ぎして祝福してくれて。花を投げるやつ、泣き出すやつ、酒を持って駆けつけるやつまで現れる。
俺の選んだ指輪をユーリが受け取って、俺の手をぎゅっと握ったとき――その感触がどうしようもなくリアルで、俺は少し俯いた。
その顔はきっと、にやけてにやけて仕方なかったはずだ。こんな気持ち悪い顔、誰にも見せたことがないのに。
(やったぞ、本当にやった……!)
心の中では、子どものように飛び上がってはしゃいでいた。今まで何も持たなかった俺が、こんな幸せを手にしているなんて。
押し倒さず我慢したあの瞬間が、ここにつながった。つくづく、褒めてやる価値がある。
(もう絶対、手放さない。守り抜く。こんな幸せ、二度とない――!)
ユーリはまっすぐな瞳で
「サイラス様、うれしいです」
と微笑んでくれた。その笑顔を見るたび、こみ上げる幸せに胸が詰まる。絶対に俺のがうれしいと思う。
今だけは、どんなに笑われてもいい。誰にどう思われても、この喜びを噛み締めていたい。
声を上げて喜ぶことはしない。けれど心の中では、これ以上にないくらい叫び続けていた。
(俺は、今、世界一幸せな男だ!)
押し倒さなかった自分、よくやった。
そして結婚式が終わったら、それからはもう、迷わず彼女を抱きしめていくと、家族をつくると静かに誓うのだった。
――Fin.