6 〜サイラス視点〜
――“普通の居場所”など、もうとっくに忘れたつもりだった。
まどろみ亭の扉を開けたとき、温かいランプの明かりが、ほのかに木の匂いと共に染みついてきた。この店の空気は、どことなくホッとするような安堵が入り混じっている。平和な村の宿屋。
酒場や店は多いが、俺は、どうしても人混みが苦手だ。もちろん自分でも、どこでだって“歓迎される顔”でないことは分かっていた。
宿屋にいれば、誰とも余計な話をせず、必要な時だけ静かに飯を食い、眠れる。それだけでいい。細かい噂話も、蔑みの視線も、もう慣れたはずだ。
今日もまた、不必要に視線を集めぬようフードを深く被る。宿に入り、低い声で短く、必要最低限の言葉を告げた。
「……部屋、空いているか?」
――その時、俺は、カウンターの奥からこちらを向いた少女の顔に、少しだけ目を留めた。まだ若く、細い肩。けれど、こちらをまっすぐ見る瞳は妙に澄んでいて、怯えや軽蔑も混じっていない。
「は、はい。もちろんです! おひとり様ですか? 」
……普通だ。ただ、他の連中のように、露骨に態度を崩したり、物珍しそうな目でじろじろ見たりもしない。不器用なくらいまっすぐで、どこか不安げに俺の返事を待っていた。
「……泊まる」
筆記台に名前を書くよう促される。慣れぬ手つきでペンを取った。人前で何かをするのは、もう何年も避けてきた。それでも今日、俺は「サイラス」と、素直に名を記した。
案内されて階段を上がる。背後に感じる少女の小さな背中は、どこか軽やかだ。時々振り返ってはこちらを見てくる視線。しきりに言葉を繋ごうとするけれど、あまり得意そうではない。
「えっと、ご滞在中、なにかご不便があれば、何でも言ってくださいね」
どう答えていいか分からず、少しだけ目を合わせる。とっさに視線をそらし、「……わかった」とだけ呟いた。
俺の返事を聞いた少女が、ふと――ほんのわずかに微笑んだ。
なぜだろう。あれほど人間との接触を避けてきたのに、この宿の、この少女だけは、どこか“違う”ような気がした。
物珍し気にじっと見つめたり、遠巻きに囁くような悪意の視線がない。俺の顔を見るときは、なぜか普通の、日差しのような目だ。
……警戒しろ。分かっている。こんな気の緩みが、いつだって命取りになる。
だけど誰にも知られず、ただの“冒険者”として名を連ねるとき――ほんの一瞬だけ、この世界の誰かに、自分のことを見てほしいのかもしれない、などと、柄にもなく思ってしまった。
部屋に案内され、鍵を受け取り、少女――ユーリという名前らしい――に礼だけは言った。
「……世話になる」
また、あの普通の、あたたかい目で頷かれた。その表情は、どこまでも“日常”に溶け込んでいて、俺の心の奥で、長い間忘れていた何かがかすかに疼いた。
今日もまた、一人で眠る夜が来る。それでも、扉を閉じて静けさに包まれた瞬間、ほんの一瞬――あの少女の声が、記憶の底で小さく鳴り響く。
……思い出すな。名前も、過去も、ここにいる理由も。
ただ、“サイラス”として、生き抜くだけだ。それでも、あの瞳だけはなぜか、しばらく心から離れなかった。
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夜が更けて、まどろみ亭は静寂に包まれる。
一人きりの部屋、蝋燭の揺れる火影を見つめていると、どこか遠い昔の記憶が胸を突き上げてくる。
……それを振り払うように、俺は窓を開けた。ひやりとした夜風が肌を撫でる。季節は春、なのに手のひらは汗で湿っていた。
足音が廊下に響く。小さくノックの音。
「あの……サイラス様、起きてますか?」
ユーリの声だ。いつもひたむきで、一生懸命で――まっすぐな視線で俺を見てくる。それがどうしようもなく心の弱い場所を突いてくる。
「起きている」
「お邪魔してもいいですか? 」
「……かまわない」
中に入ってきたユーリは、手に温かい湯気の立つカップを抱えている。
「夜食です。よかったら……あ、いらなかったら無理しなくて大丈夫……」
顔を真っ赤にして言葉をつなぐその姿は、なんとも不器用で、危なっかしくて、けれど可愛げがあった。心臓が、ひどく騒がしくなる。
「……もらう」
俺の返事を聞いた時の、あの幸せそうな笑顔――ああ、もう本当に無防備で純粋で、見ているこっちの方がたじろいでしまう。
普通、こんな大男に、もっと怯えてもいいはずだろう。なのに、この子は迷いなく距離を縮めてくる。
「サイラス様って、本当は優しい方なんだって、わかります。強いだけじゃなくて……すごく、真面目で……誠実だなって」
……そんなことを言われて、平気な顔なんてできるはずがない。俺は無言でカップを受け取り、ゆっくりと中身を喉に流し込んだ。湯気に混ざったハーブの香りが、どこか懐かしい。
「俺には……」
無意識に言葉が漏れそうになる。――俺には、誰かの傍にいる資格なんてない。
今まで何人も、守れなかった。大切にしたいと思うほど、遠ざけるしかなかった。
「俺に……そんなふうに親切にしなくていい。後々、後悔させるかもしれない」
自分でも思う。馬鹿な言い方だ。でも、これ以上踏み込んではいけない気がして。
けれどユーリは、悲しげに微笑みながら、それでも俺の目をしっかり見据えてくる。
「私は……サイラス様のこと、もっと知りたいです」
その言葉が、ナイフのように刺さる。なぜこんなにも、この子は……いや、分かってる。これだけ優しくされて、惚れずにいられるわけがない――
むしろ、もう心の奥のどこかで何度も、何度も、この子の可憐な笑顔を思い出している。
だけど、俺の過去は――傷だらけで、いびつに歪んでいる。その世界に、この子は引きずり込みたくない。
「……やめておけ」
ようやく絞り出したその言葉でさえ、震えてしまいそうになる。
本当は――
本当は、俺だって、この子に手を伸ばして、すべてを投げ出して甘えたかった。
無理だと、分かっているのに。
自分にはそんな価値はないと、言い聞かせているのに。
……それからの数日、ユーリは少しずつ、だが確実に俺の距離を縮めてきた。目が合えば笑顔をくれる。些細なことでも褒めてくれる。その度に俺の心は、苦しくなるくらい波打つ。
――惚れないわけ、ないだろう。
このまま我慢できずに、どこかで歯止めがきかなくなりそうで、怖い。
それでも俺は、今日も不器用に彼女の優しさを受け止めることしかできなかった。
……せめてもう少しだけ、こうしていられるのなら――それだけを、密かに祈っている。
*
厨房の奥から、妙にざわついた小声が漏れてくる。
(まただ……)
サイラスは厨房に向かう途中、ふと聞こえてきたあのざらついた声に思わず足を止めた。 中では女たちが何やら寄り集まり、好き勝手に噂話をしている。
「あの子、サイラス様と仲良すぎじゃない?」
「まさか色目使ってるとか?」
「サイラス様って冒険者だし、金づるかしら? お金目当てよきっと」
「……もしくは弱み握られてるとか?脅されて付き合ってるんじゃ……?」
「あのフードの下は恐ろしくて誰も見たことないじゃない。実は……とか?」
耳障りな笑い声。昔から、こういう声だけは、どんな傷よりも後を引いた。
(……やっぱり、そう見えるんだ。俺と一緒にいれば、誰だって……)
無意識に手が拳を作った。爪が掌に食い込んでも、どこか遠い感覚だった。悪意も好奇心も混じったその言葉が、今さら自分を傷つけることはない――
――そう思っていたはずだった。
だが、ユーリまで巻き込んだことだけは、違った。自分に向けられる侮蔑なら慣れている。だが、ユーリだけは。
静かに厨房の戸口に立つと、場の空気が凍りつくのを感じた。女たちが一斉にうつむく。その中で、ユーリは少し離れたカウンターで、いつものあたたかな表情のまま、朝食の仕度に手を動かしていた。
(こんな声、聞こえてないわけがない。それでも、あの子は――)
気がつけば、足が勝手に動いていた。
「……ユーリ。話がある」
手荒なくらい、強引に手を取り厨房から引きずり出す。誰もいない裏庭。 少し冷たい風が肌を撫でる。だが胸の奥では、熱と痛みがこみ上げていた。
「サイラス様……?」
その声に、少しだけ心が軋む。
「――ユーリ、本当に俺と一緒にいて、後悔していないのか?」
思ってもいなかった言葉が、勝手に口からこぼれた。彼女の純粋な声。朝日のような微笑み。どれほどそれに救われているか、ユーリは知るはずもない。
けれど、あんな噂を聞いて――
「もちろんです。むしろ、私の方がいつも救われてるくらいで……」
――その言葉さえ、現実には思えない。
「……違う。俺は……。お前、噂ぐらい聞こえていただろう」
「噂……?」
「『お前が脅されている』とか、『俺は金づるだ』とか――笑ってた。でもそれが普通の感性だ」
思えば、自分は昔から一人だった。誰にも必要とされないし、笑われて、疎まれて、何も残らなかった。
冒険者としてまがいものの名声を手に入れても、フード越しの視線は変わらない。醜いこの顔、この身体。
人間でないものを見るような目――
ユーリも、きっと……。
だが、彼女は違った。自分をまっすぐに見て、“サイラス様”と微笑む。そのたびに、心が揺れる。痛いほど、望みたくなってしまう。
(……望むな。手放せ。騙されるな。どうせ全部、幻に決まっている)
「……俺は、何も持たない男だ。誰にも必要とされていない。ずっとそうだった。醜い顔だって疎まれ、うとまれて、何も残らなかった」
呟く声が震えていた。情けなさと、恐怖と、どうしようもない愛しさがないまぜになって。
そして、一縷の希望に怯えている自分が、何よりも苦しかった。
「俺を好いてくれるなんて、あり得ないはずなのに、お前はそう言う……だけど、それさえも信じていいのかわからなくなる」
不意に彼女を遠ざけたくなるほど、近くにいてほしいと求めてしまう。
「――頼む、あまり、俺の心を乱さないでくれ」
たぶん、自分の声は必死で、みっともなかった。それでも、すがるように願ってしまう。信じてはいけない、でも、どうしても信じたくて。
言い終えぬままの問いが、唇に残る。
「本当に、信じても……いいのか?」
ユーリは息をのみ、真剣な目でこちらをまっすぐ見返してきた。
「信じてください、サイラス様! 私はあなたが……あなたの全部が好きです。見た目や噂なんて――どうだっていいんです! 私は、サイラス様の……」
眩しいほどの信頼と、まっすぐな愛。その表情に、胸の奥からなにかが溢れてしまいそうだった。
「……もう、これ以上お前を巻き込みたくない。俺には、その資格も……」
ぎゅっと喉が詰まり、最後まで言えなかった。手放したいのに、ただ隣にいてほしい。こんな弱い自分を、どうして許してくれるのだろう。
「サイラス様っ!!」
彼女が名前を呼ぶたび、痛みは消えていく。
だが、それさえもまた夢なのではないかと、自分自身を後ずさりさせる。
(――どうか、もう少しだけ。どうか、この奇跡が終わらないでくれ)
涙も、笑いも、ユーリのぬくもりですら、サイラスには未だに信じきれない奇跡だった。
だが、その奇跡を――
もう、二度と自分から手離したくはなかった。