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宿屋《まどろみ亭》に来てから、ユーリは気づけばサイラスのことばかり考えるようになっていた。
朝――
食堂の隅。やっぱり今日も、サイラスは一番目立たない席を選んで座っている。他の人たちは彼の顔を見てはヒソヒソしているけれど、ユーリにはどうしても理解できなかった。
はっきりした二重に高い鼻、きりっとした横顔に引き締まった身体。むしろ、こんなに格好いい人がいるものなのかとユーリは毎回、胸が熱くした。
「……おはようございます、サイラス様。今日はお気に入りのハーブパンを焼いたんです」
(少しでも元気になってほしい)
ユーリの声も自然と弾みがついてしまう。
「……悪いな。気を遣わなくていいんだ」
そう言ってサイラスは少しだけ視線を下げるがユーリは気にせず、熱々のパンを一番きれいに焼けたものからお皿に載せた。
「いえ、ほんとにちょっとだけのつもりです。冒険者さんは食べて力をつけなきゃ」
サイラスは黙ってパンを見つめ、ほんの少しだけ口元を動かす。そして、誰にも聞こえないくらい小さな声で——
「……礼を言う」
(ああ、うれしい……!)
思わずユーリの胸は跳ね上がる。それでも知らないふりをして、笑顔で席を離れた。
*
毎日、少しずつ。サイラスは前よりユーリの存在に慣れてきたようだった。
ある朝、ユーリがパンを差し出すと彼がぽつりと話しかけてきた。
「……今日のパン、昨日よりうまそうだな」
「ほんとですか? 昨日はちょっと焦がしちゃって。でも今日は自信あります!」
ユーリが笑顔で自分のパンを差し出すと、サイラスはしばらくパンを見つめたあとで、ゆっくりと一口かじった。
「……悪くない。……いや、かなり旨い」
わぁ、と声に出しそうになって、慌てて口を押さえるユーリ。それでも、ユーリの気持ちは顔に出てしまっていて、嬉しそうに目元を緩めている。
「……やった!」
サイラスも照れくさそうに目を逸らした。
(もしかして少しだけ、打ち解けてくれた?)
ユーリの胸がきゅんと痛んだ。
*
昼休みになると、ユーリは片付けの合間にハーブティーを用意してサイラスの元へ向かった。確か今日は冒険者業はお休みしていたはずだ、と部屋のドアを叩く。
「サイラス様、ミントもお好きですか? 」
「……まあ、落ち着く気がしてな」
「じゃあ、次はもっとたくさん用意しますね! レモンバームも合うから、今度一緒にどうですか?」
「……悪いな。気を遣わせて」
「私、サイラス様の『好き』を知るのが楽しいんです」
ユーリがそう言うと、サイラスは明らかに驚いた様子で見て、それからすぐにうつむく。
「……好き?」
「はい。サイラス様がどんなものが好きか、もっと知りたいです」
「……お前、本当に変わってるな」
サイラスはぽつりとそう呟く。でも、ユーリにはうれしい言葉に聞こえた。
*
雨の日、廊下で滑りかけたユーリを、咄嗟にサイラスが支えた。
「きゃっ!」
驚いて見つめると、ものすごく近い距離でサイラスがユーリの腕をしっかり握っている。
「……あぶない、気をつけろ」
「す、すみませんっ! 」
ユーリが謝って離れようとすると、サイラス様は一瞬困ったような顔になり、小さくため息をついた。
「……怪我はないか?」
「大丈夫です。ありがとうございます!」
「……そうか。なら、よかった」
そう言うと、サイラスはユーリの額についた埃をそっとはらう。 ユーリの顔が熱くなっていく。サイラスの指先も、ちょっと震えていた。
*
またある時は、ユーリが厨房で果実酒の仕込みをしていると、 サイラスはいつもより少し長く、ユーリの作業を眺める。
「……それ、どんな味だ?」
「甘いですよ。サイラス様も、今度一緒に飲みませんか?」
「……俺が? いいのか?」
「もちろんです。サイラス様と夜更かしするの、楽しそう」
そう言うと、彼は明らかに戸惑って、カップを持つ手がそわそわと揺れる。
「……ありがとう」
(照れてる……? なんて…愛しい人なんだろう)
「楽しみにしています」
ユーリは手元を見つめぽつりと伝えた。
*
夜、裏庭でサイラスが剣の手入れをしていることに気づいたユーリは、マントを手に急いで駆け寄った。
「夜風、冷えますよ?」
サイラスは振り返ると、ほんのわずかに表情を緩めて答えた。
「……大丈夫だ。お前が寒いのなら……俺の近くに……となりにいればいい」
思いがけず返ってきたまっすぐな言葉に、ユーリはどこか息を詰まらせたようだった。そのままそっとサイラスの隣に座り、並んでマントを広げる。
「はい。……あったかくて安心します」
サイラスは不器用な手つきで自分とユーリ、ふたりの肩にマントをかけ直してやった。そのさりげなく優しい仕草に、ユーリの表情はふんわりとゆるむ。
「ありがとうございます!」
一拍の間を置いて、サイラスがぽつりと呟いた。
「……俺には、こうやって誰かと並ぶことも、珍しいんだ。……変な顔だと、嫌われる一方だから」
サイラスの横顔を見つめながら、ユーリは勇気を出して自分の想いを伝える。
「私はサイラス様が一番素敵に見えますよ」
サイラスは戸惑いと恥ずかしさが入り混じった顔でふっと笑った。だがその中に、嬉しさも確かに見て取れた。
「……俺の顔が?」
ユーリは大きくうなずく。しばし逡巡したあと、ポツリと語りはじめる。
「……あの、実は私、たぶんこの世界の生まれじゃないんです。本当は――別の世界、いわゆる《異世界》から来たみたいなんです」
予想外の言葉に、サイラスの手がわずかに止まる。ユーリは静かに続けた。
「こっちに来たときのことは記憶が曖昧で……でも、もしかしたら元の世界の私は死んでしまったか、それか昏睡状態なのかもしれません」
サイラスが静かに耳を傾けているのを見て、ユーリは続ける。
「それに、私のいた世界とこっちの世界だと、美しさの感じ方がずいぶん違っていて……サイラス様みたいな人が街を歩いていたら、あちらではきっと俳優とかモデルとか、すぐにスカウトされちゃうような……とにかくサイラス様のことを、ものすごい美形だと感じる世界なんです!」
言い終えたユーリの頬は赤く染まっていたが、表情は真剣そのものだった。
「だから、サイラス様がご自分の顔を気にするなんてもったいなくて……私から見たら、とても見目麗しいんですよ。本当に、ほれぼれしちゃうくらいで、いつも見とれてしまいます」
サイラスは一瞬だけ目を見開き、それから困ったように――しかしどこか安心したような、包み込むような笑みを浮かべた。
「そんなふうに思ってくれるのは、お前くらいだ」
「いいえ、きっと他の世界にも、サイラス様の良さが分かる人はたくさんいます。私はここに来て、サイラス様に会えて、本当にラッキーだし、幸せです」
夜風がわずかにやさしくなる。沈黙の中で、サイラスは不器用にユーリの肩を抱き寄せる。
マントの下で寄り添ったふたりの姿は、柔らかい月明かりにそっと包まれていた。
「お前、本当に変わってるな……でも、そんなふうに言ってくれるのは、お前だけだ」
ユーリはそんなサイラスを、心から大切に思うようになっていた。サイラスの優しさ、不器用さ、その奥にある小さな心の傷。ユーリは一つずつ拾いあげて、ぜんぶ抱きしめたくて仕方がなかった。
だから、少しずつ。
少しずつ、サイラスの心がユーリにだけ開いていくこの時間を、何よりも大事に思っていた。
(サイラス様にいつか、私のこの気持ちもちゃんとわかってもらえますように。 )
そう祈りながら、ユーリは毎日彼の隣に“普通に”座り続けた。
ある日の夜――。
宿の厨房裏は、夜更けの静けさに包まれていた。片付けを終えたばかりのユーリが、手のひらに夜食の小さなパンと干し肉をそっと乗せて、ひとりきりでいるサイラスのもとへ忍び足で近づく。
「今日も夜更かしですか?」
小声で呼びかけると、サイラスは剣の刃に目を落としたまま、頷いた。
「……剣の手入れだ」
その横顔は、昼間よりも少しだけ柔らかい。ユーリは頬を緩めてパンを差し出した。
「ガタガタ音がしてたから、何かあったのかって心配しました」
言われて、サイラスの手がぴたりと止まる。思わずバツが悪そうに眉をしかめる。
「……バレてたか」
ユーリはくすりと笑う。
サイラスは夜の静けさに馴染んでいるが、どこか寂しそうにも見える。そっと声をかけてみる。
「フードを脱いだ姿も、ちゃんと周りに見せていっていいのに」
サイラスの手がふと止まる。軽く息を呑み、言葉を探しているようだった。
「……今は……。いや、なんでもない」
そう言って、短くかぶりを振る。
その頬に、ほんのりと朱がさしていた。
素直になりきれない不器用さが愛おしい。
ユーリはパンの包みを差し出す。
「はい。今日はリンゴのジャム入りですよ。あたたかいうちにどうぞ」
サイラスが戸惑いながらも、そっとパンを受け取る。その指先は少しだけ震えていて、けれど嬉しさを隠しきれていなかった。
「……ありがとう」
真夜中の厨房裏、二人だけの秘密の時間。サイラスは照れ隠しに目を伏せたまま、パンにかじりつく。
その仕草がどこか幼く、そして心から安心しているようだった。
「こうして誰かが待っててくれるの、やっぱりいいものですね」
ユーリがぽつりと言うと、サイラスは一瞬だけユーリを見つめて、小さな声で返す。
「……お前が来てくれるのが、一番嬉しい」
その言葉に、ユーリの頬も赤く染まる。ふたりの間に、暖かい夜風が静かに通り抜けていった。
月明かりの下――お互いの気持ちが少しずつ寄り添い合う、穏やかな夜だった。
*
その様子は、やがて宿にいる他の使用人や小さな常連客たちにも『気づかれ始める』。それでも、ユーリは気にしない。むしろサイラスの寡黙さや不器用なやさしさを誰よりも大切に感じていたからだ。
ある午後、二人きりの買い出し帰り、道端で小麦畑の花を見つける。
「サイラス様、この花知ってます? 私の世界では《希望》って意味があるんです」
「……知らなかった。そんな価値があるとはな」
「花の価値って、世界で違うんですね。でも、サイラス様が持てばきっと似合うと思う」
ユーリは照れ隠しのように、花を彼の手籠にそっと結んだ。サイラスはぎこちなく、でも不器用な笑みを見せる。
「……ありがとう」
「サイラス様、もう少し肩の力を抜いても大丈夫ですよ。だって――私、サイラス様の素敵なところ探すの得意なんです。頑張らなくても、サイラス様はきっと誰にも負けませんから」
サイラスはふいに歩みを止める。その瞳に、かすかに痛みと迷いが宿る。
「――ユーリ、お前はどこまで物好きなんだ。俺といるより他のヤツと過ごしたほうが…… 」
「私がサイラス様と一緒にいたいんです」
二人は笑う。けれどその瞬間を陰から見つめる視線があった。
*
数日後、いつもの朝食の仕度中。厨房の奥から盛大なささやき声が聞こえる。
「あの子、サイラス様と仲良すぎじゃない?」
「まさか色目使ってるとか?」
「サイラス様って冒険者だし、金づるかしら?お金目当てよきっと」
「……もしくは弱み握られてるとか?脅されて付き合ってるんじゃ……?」
「あのフードの下は恐ろしくて誰も見たことないじゃない。実は……とか?」
小声はどんどん大胆になり、ついには数人で蔑むような笑い声まで漏れる。幸いユーリは、その集団から少し離れた場所にいて、あまり聞こえていないようだが。
その瞬間、厨房の戸口で人影――サイラスが立っていた。静かだが強い視線で、噂していた使用人たちを一瞥する。皆、一斉にうつむいた。
沈黙。サイラスはユーリのもとへとまっすぐに歩み寄る。その表情はいつになく険しい。
「……ユーリ。話がある」
ユーリは、周囲の空気を察して心がざわつく。それでも小さく微笑む。
「あ、あの……」
サイラスは強引に厨房からユーリを引き出し、裏庭の静かな場所に立たせた。
木漏れ日の下、澄んだ空気と二人きり。
「サイラス様……?」
不安げにユーリが問う。その目をしっかりと見つめるサイラス。その瞳に、深い葛藤と苦しみが映っていた。
「――ユーリ、本当に俺と一緒にいて、後悔していないのか?」
「もちろんです。むしろ、私の方がいつも救われてるくらいで……」
「……違う。俺は……。お前、噂ぐらい聞こえていただろう」
「噂……?」
「『お前が脅されている』とか、『俺は金づるだ』とか――笑ってた。でもそれが普通の感性だ」
彼は自嘲気味に俯く。
「そんな――! サイラス様、私は……!」
だが、サイラスは遮る。
「……俺は、何も持たない男だ。誰にも必要とされていない。ずっとそうだった。醜い顔だって疎まれ、うとまれて、何も残らなかった」
苦しそうに息を吐き、そのまま続ける。
「俺を好いてくれるなんて、あり得ないはずなのに、お前はそう言う。……だけど、それさえも信じていいのかわからなくなる」
心の中では信じたい。けれど、それが怖い。
「――頼む、あまり、俺の心を乱さないでくれ」
掠れた声。震える手。
「本当に、信じても……いいのか?」
まるで傷を見せるように、サイラスは正面からユーリを見つめて問い詰める。ユーリも必死になる。
「信じてください、サイラス様! 私はあなたが……あなたの全部が好きです。見た目や噂なんて――どうだっていいんです! 私は、サイラス様の……」
言葉がせき止められる。それでも、サイラスは震えるままユーリから目をそらしてしまう。
「……もう、これ以上お前を巻き込みたくない。俺には、その資格も……」
「サイラス様っ!!」
どれだけ言葉を尽くしても、いまの彼には届かない。外野の陰口、世界の常識、サイラス自身の痛み――それだけが、二人の間でどこまでも壁のように高くなる。
*
その夜。
ユーリは自分のベッドでじっと天井を見ていた。涙が滲む。悔しい。だけど、泣き顔じゃサイラスには会えない。
明日こそ、きっと自分の「本気」を証明しよう。そう何度も握り拳を作ってみた。
同じ夜――
サイラスは、自室の窓辺でフードを外していた。薄明かりの下、自分の顔をじっと見つめる。
信じたい――けれど、信じればそれが壊れた時が怖い。自分こそが彼女を苦しめているのかもしれない。その思いが、何よりも重く胸にのしかかった。