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目が覚めた瞬間、優莉は自分の体に強烈な違和感を覚えた。
息を吸い込むたび、胸の奥まで痛みなく空気が行き届いていく。手足は不思議なほど軽やかで、仰向けから上半身を起こしただけで――あれ? と思った。こんなに自由に、重力を意識せず身体を動かせるのは、いったいいつ以来だろう。
ほんの数日前まで、優莉は地下鉄の走る音さえ遠くに聞こえる病院で、窓のブラインド越しに曇った空を眺めていたはずだった。薄いシーツにくるまり、点滴の針が刺さった手首ではスマホも持てず、ベッドから一歩も出られない。目覚めても身体は重く、数十分おきに何度も眠りに引き戻されて、温度も痛みも全て曖昧な感覚に包まれ始めていた。
消毒液の匂い。機械の小さな警告音、ナースステーションの遠い話し声。あの日も、家族が面会に来てくれたあとの、ぼんやりした午後だったはず――
“優莉、また来るからね”
“バイバイって、言って”
頑張って指を動かし、弱々しく笑った。
それからまた眠って、そして――
目を覚ました今、鼻を打つのは明らかに消毒液ではない。どことなく乾いた木の匂いに、微かに漂うハーブや石鹸のような香り。つい反射的に、まぶたをぱちぱちと開く。
天井には、太い梁が斜めに走り、煤けたランプが天井からぶら下がっている。壁はざらついた白の漆喰で、ベッドのシーツは少し毛羽立ち、陽光を受けて陰影をつくっていた。隣の小さな机、その上には陶器のピッチャーとカップ、見慣れない銀の小物。
「……え?」
ベッドサイドの椅子には、きちんと畳まれた綿のワンピース。
カーテン越しに射す光は柔らかく、窓を開けて見れば、赤い瓦屋根とレンガ造りの家々、石畳の道が続いていた――そこには日本で見た駅前もコンビニも、何一つなかった。
唇を噛みしめて頬をつねる。痛い。だけど、あの病室でぼんやりしていた感覚とはまるで違う。
(夢……じゃないの? 本当に、ここはどこ……?)
思わず口から言葉が零れた。
「天国? それとも夢……? って、どうしてこんなにリアルなの」
指先を見つめる。ゆっくり握ったり開いたりしてみる。その動きは滑らかで、まるで病気を告知される前に戻ったみたい。記憶をたどれば、病気がわかってから何年も、ずっと“できなくなっていく”ことだらけだった。
歩く。走る。普通に食事をする。笑う。長い入院生活で一つ一つ、諦めていった動作。その度に「いつまで生きられるんだろう」「もし次に目覚めたとき、もう何もできなかったら――」と毎晩怯えて泣いたことも、強く覚えている。
もはや反射のように、薬を飲もうとポーチを探した。だが横にあるのは冷たい石の水差しと、固いタオル地のハンカチだけ。枕元や机のどこにも、肌身離さず持っていたはずの薬は一個もなかった。
「え、ええと……落ち着け、私……。これ、もしかして、異世界転移……?」
思わず苦笑が漏れる。
小説や漫画で幾度となく読んだ『異世界』の始まり。だけど本当に自分がそんな現象に巻き込まれるなんて、現実味がなかった。
(もしかしたら、“あっち”の身体はもう動かなくなって……私は今ここに。本当に死んでしまったの? いや、今こうして考えられて、呼吸もできて、動ける。でも、誰もいない。家族の声もしない。帰る場所もわからない――)
優莉はそっと目を閉じ、息を吸い込む。
異国の空気は新鮮で青く、血液のすみずみまで巡っていくみたいだった。
――ここが新しい『私の世界』なら、何とかして生きていかなくちゃ。不安と期待が入り混じったまま、胸の奥でじんじんとしていた。
「あっちでの身体が亡くなった瞬間、こっちに転移……なんてね。そんな都合の良い話、あるわけないか。ふふ……」
どこか頼りない笑いが小さく部屋にこだました。でも指先はもう、震えてはいなかった。
*
ごと、ごと、とドアの向こうで小さく何かが揺れる音がした。床板を軋ませる足音が近づいてくる。静かな異国の空気のなか、やけにその気配だけがはっきり耳に届いた。
――誰かが、来る。
優莉はとっさに身を起こしたものの、まだ見知らぬ場所の現実がうまく飲み込めず、心臓が小さく跳ね上がった。
「おーい、起きてるかい?」
ふいに扉の向こうから、包み込むような優しい声が響く。ただ、その声の奥には働き者の逞しさもあって、まるで冬の毛布みたいな温度だった。
続けて、きゅっとドアノブが回され、分厚い木戸がゆっくり開く。入り口に立ったのは、年の頃は四十代後半くらい、ふっくらとした体格の女性。
小花模様のエプロンを身に着け、頬には陽に焼けた柔らかな赤みが差していた。瞳の色は澄んだエメラルド色で、しわの具合もどこか愛嬌があり、思わず安心してしまいそうな雰囲気をまとっている。
「大丈夫かい? 今朝、村の外れで倒れてるのを見つけて、うちの旦那に手伝ってもらって、ここまで運んできたんだよ。あんな所で人が倒れてるなんて、家の用事もほっぽって駆けだしちまったよ」
女性はそう言うと、部屋の中に足を踏み入れ、ベッドの足元に腰を下ろした。両手を膝の上で重ねる所作にも、どこか物腰の丁寧さがにじむ。
優莉は咄嗟にシーツをぎゅっと握りしめる。居場所を問いたいのに、口がこわばり、言葉がなかなか出てこない。けれど女性の柔らかいまなざしが「大丈夫だよ」と語りかけてくる。
「あの……ここは、どこでしょう?」
か細い声がようやく喉からこぼれる。
「ここは《まどろみ亭》。この村の外れにある、ちいさな宿屋さ。あんたは村の外れの街道で気を失って倒れてたのさ――どうしてあんな所にいたんだい? 何か覚えてる?」
優莉は困惑と恐怖をごまかすように肩をすくめる。
「……記憶が、なんだかぼんやりしてて……」
女性がそっと顔を覗きこむ。
「そりゃびっくりもするよねぇ。けど、ケガはなさそうで良かった。少し顔色はまだ、悪いかな……」
心配そうに手を差し出し、額に優しく手のひらを当ててくれた。その手は温かく、どこか懐かしくて。
「名前、言えるかい? 困ったとき、人はまず名前から思い出すって言うもんだからね」
――そうだ、私は、優莉。日本で生まれ育った、ごく平凡な顔立ちの女。それだけは――どんなに景色が変わっても、忘れちゃいけない自分の根っこだ。その思いが込み上げて、少しだけ勇気を持って返した。
「えっと……ユーリです。優しい……花という意味の、ユーリ……」
女性はふわりと微笑みんだ。
「ユーリちゃんかい。ふふ、かわいいねえ。名前の意味までステキじゃないか。あたしはミネット、ここの女将だよ」
女将は自己紹介をしてくれた。声は相変わらず穏やかで、長年人をもてなしてきた人の懐の深さを感じる。
それでも、優莉の不安は完全には消えない。
「あの、私……本当にどうしてここにいるのか覚えていなくて……。迷惑じゃ、ありませんか?」
精一杯の思いを込めて尋ねると、女将は大きく首を振った。
「迷惑なもんかい! 世の中にはね、時々“風が運んでくる出会い”ってものがあるんだ。困った時はお互いさまだろ? ここで働くみんなも、大抵はどこか行く先失って、誰かに助けてもらってきた子ばっかりさ」
そう言いながら女将はそっとユーリの肩をなでる。
「まずは、身体をゆっくり休めること。家族だって、心配してるかもしれないしねぇ。思い出すまで、ここでゆっくりしていればいいよ」
その一言が妙に胸に沁みて、優莉はこらえきれず涙で目を潤ませてしまう。
「すみません……ご親切にしていただいて……」
女将ミネットは、まるで昔からの知り合いのように、目尻を下げて優しく微笑んだ。
「お礼なんていらないよ。あんたもきっと、誰かに優しくしてあげる人になる。そういうのは、巡るものだよ」
優莉は涙を拭いながら、うなずいた。
「お腹、空いてるだろ? しばらく寝てたからね。台所まで降りておいで。温かいスープを用意してあるから!」
どこか陽だまりに包まれるみたいな言い方だった。
女将は立ち上がり、出口に向かうときも、一度ふり返ってユーリの顔をじっと見つめてくれた。
「焦らなくていいよ、ゆっくりでいい。靴も服もここに置いてあるから……困ったことがあったら、なんでも呼んでおくれ」
優莉は小さく「はい」と返す。その声はまだ震えていたけど、不思議と胸の底にほんのりと温もりが灯った気がした。
女将が部屋を出ると、優莉はゆっくりとベッドから降り、ちょっとだけ足元の感覚を確かめる。まだふらつく体を抱えながらも、“ここにいてもいい”のだと背中を押されたような心持ちになっていた。