第一話 ウェンチー
俺は目を開けてむくりと起き上がる。
歩く度にギシッ!と床が軋む音がする。仲間はこの家を捨てろと言うが、俺に捨てる気はない。今までここでずっと暮らしてきた。それもここで起きたあの惨劇を忘れないためである。
蜚蠊が足元をカサカサと聞き慣れた音を立てて走っている。
それを踏み潰して、目の前のカレンダーに顔を向ける。
「…今日で1年か」
俺はへらっと笑った。
俺はテーブルに置いてある小熊猫と黒のジッポーライターを手に取り、バルコニーへ行く。
タバコを1本だけ箱から取り出して、火をつける。
煙を吸って、吐き出す。
携帯から着信音が鳴り響く。
手に取って電話に出ると、仲間からの電話だった。
『もう着く…』
「火ィつけたばっかだよ」
俺は電話を切って、タバコを地面に落として踏みつけて火を消す。
俺は空になったタバコの箱を投げ捨てて俺は出かけた。
***
「お前さえ居なければ…!」
それが俺の母親の口癖だった。
母親は娼婦だったらしい。
母親は客との間にできてしまった子供が嫌いだった。
中絶する金もなく、俺を産むしかなかった。
俺は望まれた存在ではなかった。
パンッ!
隣の部屋で銃声がした。普通なら珍しくない。街のあちこちで響き渡っている。
隣の部屋では母親と昔、母親のファンだった男が話していた。
どーせ、いつものようにするとしか考えていなかった。
俺がすぐに隣の部屋に行くと、母親と男が撃ち殺されていた。
盗み聞きした話だと蚩尤というチャイニーズマフィアが殺したらしい。
俺は金が払えなくなり、2日後に売り飛ばされることが決まった。
どんな待遇なのかは売った本人すらわからない。訳もわからず連れられた場所は派手な色のスーツや柄物のワイシャツを着た強面の男が大勢いる。
俺の役割は様々な娯楽の提供だった。
「やめてッ!!痛い!」
「ゲハハ!」
俺の絶叫に男は下品な笑いを返す。
再度、俺の体に刃が押し付けられる。
痛みへの恐怖が俺の本能を刺激する。
「…ッやめ!ああああーー!!」
男はナイフを下に振り下ろし、そこには俺の生温かい血の道がつくられる。
すっきりした様子の男は出ていく。
そこからは多分ほぼ毎日のように刺され、撃たれ、殴られ、蹴られ、ゲイの不潔な男どもに竿をぶち込まれた。
その生活に耐えかねて俺は4日でそこから逃げ出した。そんなことに気づくのにいつも俺を利用していた人間は20分も掛からなかった。
男たちは俺を追い回し暴力を振るう。男たちにとってこれはただの遊びなのだ。
俺が生きるのを諦めようとした時、男たちは次々と首を裂かれていった。
…なにが、おきてる?
男たちの息の根が止まった。
「…」
その血に塗れた光景を真っ直ぐ見ていたのは1人の女性だった。
殺ったのはこの人だと俺は瞬間的に察する。
綺麗で澄んだ目をしている。しかし、その奥に映るものはどこまでも冷たい。
彼女が背を向け、歩き出そうとしている。
「俺も、そんな力が…欲しい…!」
俺は意識が朦朧としている中でその言葉を放った。
「…きみ、なまえは…?」
「……名前?なんて、無ぇ」
彼女の透き通るような声は俺に残る氷のような警戒心をゆっくりと溶かしていく。
人を殺す強さが欲しかった。
無力なままで死に怯えて生きていくことなんか俺にはできない。
俺は誓った。この世界を正すことを。
***
「…っ」
「どうした?珍しいじゃないかお前は他人の前で寝るなんて…」
「あぁー疲れてるのかもな。どれくらい寝てた?」
「1時間半くらいか?」
「そんなに…か」
車の中でどうやら眠ってしまっていたらしい。
最近は仕事続きで疲労が溜まっているようだ。
この案件が終わったら、2日ほど休みを貰おうか。
「俺としては嬉しいぜ?」
「は?」
「お前に信頼されてる感じがして!」
「…そうか、そんなもんか」
運転をしているチーウェンがガハハと豪快に笑う。
俺はそう考えると殺し屋になってから随分と仲間に恵まれている。
仕事は嫌いだが、殺し屋としての生活は嫌いじゃない。
意外と俺は幸せ者なのかもしれない。
***
目を開けて、辺りをキョロキョロ見回す。
綺麗な部屋だ。ひと目で一生働いても住めない場所だと悟る。
カチャリ。扉が開き、さっきの女性が入ってきた。
俺は……。
彼女は先程までの冷たい瞳ではなく、暖かく見守るような視線を俺に送った。
彼女はその瞳のまま、右手に持っているナイフを突き出した。
ここから……。
ナイフのグリップは黒く染まり、わかりづらいが血の付着もある。
きっと彼女が使用しているものだ。
「少年。さっきの言葉はこの世界を取るということでいいんだな?」
「………」
返事はしないで、そのナイフを受け取る。
彼女は少し驚いたような表情をする。
「…戻れないぞ?」
それでいい……。それがいい……。
「なら、明日から勉強だ。文字の読み書きはできるか?」
「ん?」
「ダメそうだな」
先生は、はぁと大きなため息をついて言った。
先生はこの日から様々な言語の勉強をさせた。
***
そこから1年で6カ国語もぺらぺらになった。
俺が思い出したくなかった過去も笑って、今を生きれているのは先生や仲間がいたからなのだろう。
ブレーキが掛かり車が止まる。
「…着いたぜ」
その言葉に俺は気持ちを切り替える。
隣にあったスーツケースを手に取り、車から出る。
「ここは立地が最高だ。逆にあそこに別荘を建てるなんて、そんなに殺されたいのかって感じだ」
「んーまぁ最近は確かにこんな仕事が増えてきたなぁ、2年前までは潜入とか多くて複雑で楽しかったが…今はなぁ」
チーウェンはガクッと肩を落とす。
俺はチーウェンを気にも止めず、L42A1のスコープを覗き込む。
今回のターゲットは表では政治家として懐に金を蓄え、裏では蚩尤と繋がり国家機密を抜き出すゴミクズ。
法の通じない相手は俺たち殺し屋が殺すしかない。
「…んあ?なんだあれ?」
「どうしたよ?いきなり間抜けな声出して」
「あれを見ろよ!」
俺はチーウェンにスコープを覗かせる。
スコープの先にいたのは右腕がチェーンソーになっている男だった。
「おぉ!今時義手が武器なんて、ほんまに古いな」
「初めて見たよ、俺」
「まぁいーや、こっちに気付いてない」
「ささっと殺して逃げるぞー」
俺はチーウェンと入れ替わり、スコープを覗く。
呼吸を整える。
トリガーを引く。
ターゲットは頭から鮮血を撒き散らし倒れた。
周りにいる人が倒れたターゲットを見ている中で、義手の男だけはこちらを見た。
「逃げるぞ」
チーウェンが俺の言葉にすぐ反応して、L42A1と俺を抱えて、すぐに車に乗った。
「すまん、しくじった。義手の野郎が追ってくる。街で戦闘して殺すしかない!」
走り出した車の中で俺は声を上げる。
「大丈夫か?殺せるか?」
「当たり前だろ?」
チーウェンの言葉にニヤリと口角を上げる。
街中の殺しは結構リスクが高い。
民間人にバレないように暗殺対象を殺す必要性がある。
街には入ることができたが、やはりこの辺りは人通りが多すぎる。
あまり銃声などを鳴らして、不信感を抱かれるのは面倒だ。
俺は背後から殺気のようなものを感じ取る。
俺は振り向きざまにナイフを投げる。
「うおっとっ!」
義手の男はナイフを腕で弾く。
先ほどの機関銃の義手ではない。
普通の人間の腕である。
わざわざ変える必要があるのか?
反応がとても良い…。
相当闘い慣れている。
先程もターゲットの確認をしなかったのも含め、この世界で生き抜いてきたのも納得がいく。
ここで銃撃戦なんてしたら俺が負けることは確定だ。時間を稼いで殺す方法を考えるしかない。
「アンタ。なんで俺たちを追ってきた?」
「ン?あぁ!俺はつまらん仕事には興味がない。依頼はアイツを狙ってくる人間の削除だ。アイツを守ることは仕事に入っていない。本人が言ってたんだ、間違いはねぇよ」
いや、絶対守ってもらう気だったろ。それ。
コイツあれだな?言ったことしかやらないタイプだ。
チーウェンは街に紛れることができたはずだ。
俺は義手の男に勘付かれないようにゆっくりと自然にしゃがむ。
「あんたスゲェな。俺の投げナイフをガードしたの先生とあんただけだぜ?」
「はははっ!そりゃ光栄だなぁ!」
俺は左手で屋根の瓦を一枚剥がしてそのまま男に投げつける。
その時、男の右腕がチェーンソーに姿を変える。
そのままチェーンソーで瓦を叩き割る。
「義手じゃねぇのか?」
「あぁ!お前は知らねぇのか?5年前くらいから超能力を持った人間が生まれてきたんだ。」
「お前の能力とやらがそれか?」
「ああ!そうだ」
なに?それ?意味わからん。
義手の男はチェーンソーを起動させて俺に向かってくる。
けたたましい音が鳴り響く。
男は大きく振りかぶり、俺の頭を狙って横に振り抜く。
俺はしゃがみ、チェーンソーを避ける。
すぐに体勢を整えて、左側の次に、右側へと迫ってくるチェーンソーを躱す。
俺の足を狙う攻撃がきた。それをバク宙で躱しながら男の頭を左足で蹴る。
着地して、すぐに距離を取る。周りを見回すと、民間の人々がチェーンソーの音に首を傾げていた。
クソっ!このままだとバレちまう。
面倒だ。とてつもなく。
「…うるせぇから中で殺ろうぜ?」
男がぽかんとした0.数秒で俺は男に近寄り、脳天を殴る。
男の体は屋根を突き破り、家の中に落ちた。
幸いにも、家の中には誰もいないようだ。
俺はそのまま家の中に着地する。
「クハッ!ハハハッ!イカれてんなぁ!お前!」
「おう、殺ろうぜ?!」
男はチェーンソーのギアをさらに上げて走り出す。
俺がジャンプして男のチェーンソーを避けると、チェーンソーは俺の後ろにあった棚を真っ二つに切り裂いた。
空中にいる間に、俺はその切れた棚を掴み、男の頭に棚を叩きつける。
しかし、男は左手で俺の足を掴み、俺を地面に叩きつける。
「あがッ!!」
「おもしれぇな!お前っ!」
チェーンソーを俺に振り下ろす。
俺はフローリングの床の板を一枚引き剥がし、 板でチェーンソーを殴り、狙いをずらす。
チェーンソーは俺の左側の床に着地する。
俺は男の腹を両足で蹴ると、男は後ろの食器棚に当たる。食器棚からは皿が落ちて、割れていく。
俺は立ち上がって男の頭を目掛け、フローリングの板を投げつける。
「うらぁっ!!」
男は頭から血を流して気絶した。男の意識が落ちて、10秒後にチェーンソーは自然に動きを止めた。
静かになった部屋でため息をつく。
俺は男の体を抱えて、家から抜け出した。
「おぉ!いた!早く逃げるぞ?ウェンチー!」
「うるせーよ、そんなに騒いだら逆にバレるっつーの」
俺がそう言うとチーウェンはにへらと笑った。
***
「…ッぐあぁ!!」
俺は地面に転がる。
その理由は俺の目の前に立っている女にある。
ラオシー。俺の先生だ。
俺は木のナイフを持っていて、先生は丸腰。
有利なのは圧倒的に俺だ。なのに先ほどから地面に手をついているのはずっと俺。
「なんでだ?」
「…ふふ。やはり君は面白い。諦めないんだな」
「当たり前だろ。諦めないって誓ったからな」
俺は木のナイフを持ち直して立ち上がる。
「そうだ。君、名前ないんだろう?」
「っ?まぁ、そうだけど?」
「名前をつけようか、君に」
「え?いまさら?!」
俺がここにきてもうすでに4日が経とうとしている。それで今更、名前なんて。
「まぁまぁ!そう言うな!」
そう言って先生は下を向いて唸る。
しばらくしてから先生は顔を上げていった。
「うむ、ウェンチーにしよう」
いや、おもちゃはないだろ…。間接的に弱いって言われてるやんけ!
「よしっウェンチー。そろそろ帰るぞ?」
「え?俺ほんとにウェンチー?」
「?…なんだ?嫌か?」
先生があからさまに悲しそうな顔をする。
その顔やめろ!俺が悪いこと言っちまったみたいじゃねぇか!
「嫌じゃないよ…」
俺がため息混じりに言うと、先生は「そうか」とそっけない態度を取るが喜んでいるのがバレバレだった。
しかし名前をつけられた瞬間に新しい俺の人生が始まった気がして、なんとも言えない高揚感を覚えた。
今まで名前のなかった俺を認めてくれたような気がした。
「ウェンチー…か」
俺はボソッと呟き先生の後について行った。