第9話:「支える者と支えられる者」
「私はかつて、戦場でドワーフと戦っていた兵士でした。その頃にあなたの噂は聞いています。若くして戦局を見極め、兵たちを導いたアドストラテゴスの称号を噂される者がいると。」ルネの瞳には尊敬の色が宿っている。
「それって……」クレイナは驚いた表情を見せた。
アドストラテゴスとは戦術に至る者という意味の戦場での秀でた指揮官に与えられたことがある称号だった。
「そう、アルナ、あなたのことです。そして、昨日あなたが神託を受けたと聞いて驚きました。でも、あの議論の後、あなたが失望している様子を見て……どうしても話さずにはいられなかった。」
「でも……」アルナが小さく呟く。「私には、真なる知恵が何かを示せなかった。」
「それは仕方がありません。むしろ、あの場であなたがオリヴィア総督に食い下がり、引けを取らなかったことに意味があります。」ルネは力強く続けた。「昨日の相手――オリヴィア=アルフィス総督は、この街を400年以上統治してきた者です。立ち回りにおいては一流で、相手を追い詰める術を知っている。」
「アルフィス……。」クレイナが呟いた。「確かに名前を聞いたことはあるけど、そんなすごい人だったんだ。」
「ええ、だからこそ引き分けに持ち込んだだけでも素晴らしいことです。」ルネの言葉にアルナは少し驚いた表情を見せる。「あの場の演出で、まるでアルナが完全に劣勢だったかのように見せていましたが、実際には議論に勝敗などなかったはずです。」
「でも……みんな、私に失望していた。」アルナはうつむいたまま、心の中の迷いを吐き出すように言った。
「それは一部の人たちだけです。」ルネは静かに続ける。「本当に知恵ある者は、まだ15ほどの少女が貴族や総督を相手に堂々と議論を繰り広げた姿に可能性を感じていたはずです。」
アルナは顔を上げた。「可能性……?」
「そうです。」ルネは微笑みながら頷く。「私は思うのです。『最も賢い者』と呼ばれるあなたは、今その地位にあるのではなく、これからそこに向かって歩んでいくのだと。」
クレイナもその言葉に同意するように頷いた。「そうだよ!アルナはこれからもっと成長するんだよ!」
「でも……。」アルナは迷いを隠せない様子で続けた。「私はどうしても、私の周りにいる人々を信じてもらえなかったと思っている。あの場で、みんなが私に失望したことが、本当に辛かった。」
ルネは少し黙った後、静かに言った。「それが現実です、アルナ。」彼女は続けた。「いくらあなたの言葉が説得力があったとしても、あの場で真なる知恵を示せたとしても、支持者がいなければ、民衆は信じることができません。特にあなたのように若いエルフはそれだけで不安を抱く者もいるでしょう。オリヴィアのように、すでに何百年も民を支配し、その名声が揺るがない人物には、その時点であなたの『知恵』が及ばないという現実がある。」
ルネは深い眼差しでアルナを見つめた。
「だからこそ、私はあなたの名声を広めるために力を貸したいと思っています。あなたの知恵が正しく広まるためには、ただ頭を使うだけでは足りません。あなたを支持する者たちを集め、その人々と共にあなたの思想を伝えていくことが必要であると思います。」
「それは……。」アルナは少し考え込むと、ゆっくりと答えた。「私一人の力では、まだ足りないんだね。」
「そうです。」ルネは力強く言った。「私が力を貸すことで、あなたがどこに向かっているのか、その道を示し続けることができると思います。そして、あなたが辿り着いたとき、その『真なる知恵』を民が受け入れられるように、私はあなたを支えます。」
アルナはルネの決意に触れ、少しずつその心が軽くなるのを感じた。
「私はあなたを信じています。そして、これからも一緒に歩ませていただきたい。」ルネは微笑みながら頷いた。
アルナはその言葉を胸に、今後の道を少しだけ明確に感じ取った。今はまだ、自分の足りない部分が多いことを痛感しながらも、仲間たちと共に歩む道が少しずつ見えてきたような気がした。
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ルネの家は、街の中でもひと際目立つ大きな屋敷だった。高い石壁に囲まれた庭園、彫刻の施された柱、そして広々とした客間――アルナとクレイナにとっては、村の小さな家とは比べ物にならないほどの贅沢さだった。ルネの親は街の有力な政治家であり、彼女自身もその影響で知識と立場を兼ね備えているのだろうと感じさせた。
「今日はここで休んでください。」ルネが案内した客間は、広くて落ち着いた雰囲気だった。ふかふかのベッドが二つ並び、外の月明かりが薄いカーテンを通して柔らかく差し込んでいる。
「……豪華すぎて落ち着かないね。」クレイナが苦笑いしながらベッドに腰掛ける。アルナも小さく笑い、「本当にね。こんな部屋で寝たことないよ。」と同意した。
その夜、アルナは慣れない柔らかいベッドに身体を預け、ようやく訪れた静寂に目を閉じた。しかし、しばらくすると、小さな気配を感じて目を開けた。
「アルナ……」声を潜めたクレイナが枕を抱えて立っていた。
「どうしたの?」アルナは身体を起こしながら問いかけた。
「その……少し、寂しくて……一緒に寝てもいい?」クレイナは顔を少し赤らめながら尋ねた。その姿はいつもの冷静で頼りになるクレイナとは少し違って、心細さを隠せない幼い少女のようだった。
「もちろん。入っておいで。」アルナは布団を少し持ち上げ、隣を示した。
「昔はこうやってエリシュの家で3人で寝てたよね」
クレイナは小さく頷き、そっとアルナの隣に潜り込んだ。
しばらくの間、二人は静かに天井を見上げていたが、クレイナの小さな声がその沈黙を破った。
「アルナ……私、ここにいていいのかな。」
「どういうこと?」アルナが優しく問いかける。
「……ルネみたいに、アルナのことを助けられてる気がしないんだ。」クレイナの声は震えていた。「ルネは知識もあって、賢くて……アルナの考えを理解して、ちゃんと支えられる。でも私は、何もできない。ただそばにいるだけで、本当にそれでいいのかなって……。」
アルナは少し驚きながらも、クレイナの方に向き直った。その不安そうな顔を見ると、自分も知らないうちにクレイナを傷つけていたのかもしれないと感じた。
「クレイナ……」アルナは静かに語り始めた。「確かにルネは頼もしいし、これから私を助けてくれるかもしれない。でもね、それでもずっと支えてくれてきたのは、クレイナ、君だよ。」
「……私?」クレイナが戸惑いの表情を浮かべる。
「そう。」アルナは優しく微笑みながら続ける。「私が悩んだり、迷ったりしても、ずっとそばにいてくれたのはクレイナじゃない。どんなに周りに頼れる人が増えても、私が本当にくじけそうになったとき、心から頼れるのは君だけだと思う。」
クレイナはアルナの言葉に驚き、そして少しずつ涙がこぼれ落ちた。
「アルナ……ありがとう……。」クレイナは涙を拭いながら小さく笑った。
「だからね、これからもそばにいてくれるだけで十分だよ。それが私にとって一番の安心なんだ。」アルナはそう言うと、クレイナの頭を軽く撫でた。
クレイナは静かに頷き、アルナの肩に寄り添いながら目を閉じた。彼女の涙が止まったのを確認すると、アルナも安心して再び目を閉じた。
その夜、静かな月明かりの中、二人は安らかな眠りについた。どんな困難が待ち受けていようとも、二人の絆があれば乗り越えられると、アルナは信じていた。