第3話「疑念の始まり」
アルナはまだ浅い眠りから覚めきれない心地で、村の外れにある静かな丘に立っていた。エリシェが手当てしてくれた傷は少しずつ癒えてきていたが、心の中には別の傷が残っているようだった。あの黒猫――「ヴァレナ」と名乗る、神の使いを称する存在が、彼女に問いを投げかけた。あの問いは、まるでどこまでも深く心に刺さる刃のようだった。
「知恵とは何か?」
この問いが、アルナの中で静かに燃え続ける火種となっていた。彼女は何かを知ろうと戦場に立ち、そして深い疑問を抱かされていた。今まで信じてきた「知識=賢さ」という考えに、何かが足りない気がしてならなかった。
「エリシェに…話してみようか。」
そう思い立ち、アルナは村の広場に向かうことにした。市場の広場では、陽気な村人たちが行き交い、穏やかな日常が流れている。その中で、彼女の心は不思議な感覚に包まれていた。
ようやく見つけたエリシェに近寄ると、彼女はアルナの顔を見て微笑んだ。
「アルナ、もう少し休んだほうがいいんじゃない?」
「うん、そうかもしれない。でも、ちょっと話を聞いてほしいんだ。」
アルナの言葉に、エリシェは軽く頷き、近くの木陰に腰を下ろした。風が吹き抜け、柔らかな光が二人を包む中、アルナは心の内を話し始めた。
「あの戦場でね、不思議な黒猫に出会ったの。ヴァレナって名乗る猫で…神の使いだって。」
エリシェは驚いたように目を見開いたが、すぐにその顔は真剣なものへと変わった。彼女は静かに話を聞き、少し考え込んだように見える。
「神の使い…ね。そんな存在がアルナに問いを投げかけるなんて、きっと何か意味があるのよ。」
「それで、その猫は何を言ったの?」
アルナは深い息をつき、心に刺さったあの言葉を思い返した。
「知恵とは何か?…そう問いかけてきたの。」
その言葉を聞いたエリシェは、驚いた表情のまましばらく黙り込んだが、やがて優しい笑みを浮かべて答えた。
「アルナ、それは大切な問いだね。私もすぐには答えられないけど、きっとアルナ自身の中にヒントがあると思う。」
アルナがエリシェの言葉に勇気をもらいかけたその時、鋭い声が二人の間に割り込んできた。
「ふん、知恵?それなら答えなんて簡単じゃない?」
声の主は、長い銀髪を風になびかせ、挑発的な笑みを浮かべる少女――イザベルだった。彼女は村の中でも特別な存在で、遠い王族の血を引く名門『フランマード』の家に生まれたとされている。その堂々たる佇まいと、周囲に放つ威圧感から、誰もが自然と彼女の前で一歩引くような雰囲気を持っている。
「イザベル…あなたも聞いてたの?」
アルナは少し驚きながらも、彼女の挑戦的な視線を受け止めた。イザベルは両腕を組みながら、まるでこちらを試すかのように微笑む。
「知恵なんて、強くなるための道具よ。ただそれだけじゃない?力を手に入れれば、何だって思い通りになるもの。」
アルナはその言葉に違和感を覚えながらも、彼女の言い分に対抗する言葉がすぐには浮かばなかった。自分が「知恵とは何か」を問い始めた理由、それを理解できずにいたからだ。
「道具…?でも、知恵ってそんな単純なものじゃないと思う。私は…」
イザベルはアルナの言葉を遮るように笑い、さらに言葉を重ねた。
「ふふ、アルナ。あなたが知恵の本当の意味なんて見つけられると思ってるの?私にとって知恵は、自分の価値を証明し、他を凌駕するための『武器』。ただの道具にすぎないわ。」
「でも…」
イザベルの視線は鋭く冷たく、そしてどこか孤独な輝きを帯びていた。彼女が周囲から一目置かれる存在である背景には、自分の力に対する絶対的な自信と、彼女が背負ってきた王族の名誉と誇りがある。それゆえに、彼女は他者に妥協することを知らず、ただひたすらに「力」を追い求めてきたのだ。
「じゃあ、アルナ。あなたの言う『知恵』が、私の力に勝るって証明してみせてくれる?」
その挑発に、アルナの心の奥底に眠っていた疑念がかき立てられる。エリシェの優しい眼差しと、イザベルの冷たい視線の間で、自分は何を求めているのかを見失いかけていた。
「証明する…って、それが知恵の答えだというの?」
イザベルはその問いに一瞬の沈黙を見せたが、すぐに強い視線で言い返した。
「答えは自分で見つけなさいよ。でも、あなたが見つけた答えが本物かどうか、私が確かめてあげるわ。」
アルナはその言葉に戸惑いながらも、心の中で何かが揺れ動いているのを感じた。イザベルはそのまま彼女を一瞥し、冷ややかな笑みを浮かべて立ち去っていった。
「アルナ、イザベルの言葉は厳しいけれど、もしかしたら彼女なりにあなたを励ましているのかも。」
エリシェの優しい声に、アルナは我に返った。自分が求めているものが何なのか――それを見つける旅が、今始まろうとしているのだ。
エリシェの励ましと、イザベルの挑戦を胸に、アルナは静かに決意を固めた。
11/29 イザベルの名家に「フランマード」という名前を加えたのでそれを追記しました