第22話:「裁きの門」
それは、最悪の知らせだった。
誰よりも深くその報せを受け止めたのは、エリシェだった。
「一命は取り留めた」と伝えられたオリヴィア総督は、その夜には容態が安定したという報告が入っていた。けれど――朝にはもう、訃報へと変わっていた。
いくら治癒魔法を使ったとはいえ、あの短時間で全てを癒やせるはずがない。
傷口に混入した細菌、止まらぬ内出血、老いた身体の限界。
エリシェが責められる理由はどこにもなかった。だが、「もし私があの時もう少し何かできていれば」と彼女が自責の念を抱かずにいられたわけではない。
エリシェの言っていた、もし今回の件で総督が亡くなっていたら…という最悪の事態は現実のものとなった。
そして、さらに事態を悪くするように最悪は続いた。
民衆たちがこの事件によって 総督のこれまで圧政によって溜まった不満が弾け、刺されたが一命を取り留めたという知らせが入ってからは この圧政によって街を従えていたオリヴィア総督を引きずり降ろそうと権力者や 民衆たちが熱気を帯びて自業自得であると内乱が起きそうなほどに騒ぎ立てたのである。
アルナやルネは内政をどうにかしようとしていたわけではない、民衆たちがそれぞれ考え、話し合う場が必要であっただけだと落ち着くように声をかけたが 総督の失脚を狙う多くの権力者たちの煽りもあり、勢いが止まることはなかった。
「よくぞ倒した」と喝采する者すら現れ、火がついたように広がった暴動の気配。
すでに民衆の間では、「アルナが新たな総督になるべきだ」といった声まで上がっていた。
これでは本当にアルナの手の者が総督を暗殺したと疑われても、それを払拭することは難しくなってきていた。
だが、それはアルナの本意ではなかった。
「私たちは、民に考える場所を与えたかっただけ……」
ルネやセレナが必死に呼びかける中、火はくすぶるどころかさらに燃え広がっていた。
まるで、理性も正義も、真理さえも届かない――そんな錯覚すら覚えた。
アルナは、悩みの海の底にいた。
ゆっくりと話し、ゆっくりと問いかけ、少しずつ理解していけばよかったのではないか――
自分が「何かを導く者」になってしまった、その事実が恐ろしくて仕方なかった。
このまま総督になれば、あらゆる混乱を収めることができるかもしれない。
だが、それでは本末転倒だ。自分が信じてきた“問い続ける生き方”から外れてしまう。
……私はそんなもののために歩んできたんじゃない。
夜もまともに眠れないまま、朝焼けが庭に差し込む頃。
アルナはふらりと屋敷の裏庭に足を運んだ。
その静けさの中に――剣の音が響いていた。
稽古場ではクレイナが一人、ぎこちない足取りで木剣を振っていた。
「クレイナ?」
驚いて近づくと、クレイナはばつが悪そうに眉を下げた。
「言ってくれれば、ちゃんと教えたのに……」
アルナは微笑み、模擬刀を取ってクレイナの隣に立った。
「足はこう。剣の前に、まずは足の使い方からだよ。重心を意識して、一歩ずつ」
言葉と動きに合わせ、そっと踏み出す。踵を返し、クレイナと向き合う。
「君が剣に興味を持つなんて、ちょっと意外だった」
「私は……セレナのように頭が良くないし、ルネのような人脈も力もない。エリシェ様のような芯もありません」
弱々しい言葉とは裏腹に、クレイナの模擬刀が空気を切る。
「今更ながらこうして鍛錬したところで戦う力もアルナ様に遠く届くことはないのかもしれません」
アルナが受け流しても、彼女は再び構え直す。
「でも、だからこそ……力が欲しいと思ったんです。何もできなかった自分に、あの時もし私に戦う力があれば、と後悔したくない……」
その剣筋はまだ未熟だったが、確かに揺るぎない思いが宿っていた。
アルナはこの先も様々な思惑が渦巻く中でまたトラブルに巻き込まれることもあるかもしれない。 その時にアルナを、エリシェを、みんなを。
誰かを失ったあとの後悔をするよりも、何もできないからこそ立ち止まってなんかいられないのだと剣を振りながらクレイナは語った。
アルナはクレイナを何も出来ないなどと思ったことはなかった。
ずっと見守るようにそばにいてくれた彼女のおかげでどれほど 進むべき道が間違っていないか不安になったときに自分の背中を押してくれていたのか。
クレイナが後ろで見てくれていたから前に進めたような気さえしていたのに、 今や彼女が私の前に進んで、一緒に進もうと手を引くように こんなことであなたは立ち止まったりなんかしないのだと、言われているような気がした。
「ありがとう、クレイナ…君は強いな」
「いえ……私は、弱いから……強くなりたいと思うだけです」
小さな稽古場に、剣が交わる音と、静かな決意が染み込んでいた。
**
クレイナとの鍛錬が終わった頃には、朝の光がすっかり差し込み、庭の葉に露がきらきらと輝いていた。
「そろそろ…朝食の手伝いをしてこようと思います」と言って去っていくクレイナの背を見送りながら、アルナは少しだけ、救われた気持ちになっていた。
自分にはまだやるべきことがある。誰かを変えようとする前に、自分がどう在りたいかを問い続けなくてはいけない。
そして、その在り方が――誰かの背中を、確かに押していたのだと。
朝食の準備が始まった頃、屋敷の門の前に重たく規律正しい足音が響いた。
鉄の靴音。整列する気配。そして、その先頭に立つ銀髪の女。
「……イザベル」
庭にいたアルナが振り返ると、門の向こうから彼女が現れた。
その背には国の紋章を掲げた兵たち――。
かつて誇り高く、皮肉を忘れたことのなかった彼女の瞳は、何かを押し殺すように感情のない仮面を被っていた。
「アルナ=サトクレア」
冷ややかな声が、アルナのフルネームを呼び上げる。
「国家の命により、汝に告ぐ。四日後、王都にて大審議会が開かれる。
出頭せよ。罪状は『国家を扇動し騒乱を導いた罪』、および『王命への反逆』」
「……裁判、だって……?」
その言葉に、皿を持っていたクレイナが手を止める。誰もが息を呑み、静寂に包まれる。
「私は……」
かすれた声がアルナの唇から漏れる。
イザベルは、その声に一切反応せず、ただ義務を果たす者のように続けた。
「出頭しなければ逃亡と見做し、兵により拘束する。
当日は……罪状と証言に基づき、裁きが下される。以上だ」
その表情は読めなかった。
悲しんでいるのか、怒っているのか――それとも、何も感じていないのか。
ただ一つ確かなのは、イザベルの足取りが、もう後戻りできない場所に踏み込んでいるということだけだった。
「……行かないといけないんだね、私」
誰にともなく呟いたアルナに、イザベルは一瞬だけ目を向けた。
「お前の問いが、どこまで届くのか……見せてみるといい」
それが、かつての誇り高き戦士の、せめてもの意地だったのかもしれない。
そして彼女は、踵を返し、兵を引き連れて去っていった。
その背中を、誰も引き止めることはできなかった。
風が吹く。
木々が揺れ、空を仰ぐと、そこにヴァレナの気配はなかった。
イザベルが現れるとき、いや…危険が近づくときにいつも現れるヴァレナがいないということは、これは避けるべき運命ではなく、裁判に出ることが自分の定めなのだろう。
裁かれる者として、逃げることなく――真実と共に、壇上に立つために。
このあとはまたしばらく期間が空いてしまうかもしれませんが
完結に向けて進めていきたく思います
また物語も2/3以上が進み『影の猫と知恵の旅路』というタイトルで進めた
この物語の意図やコンセプトがそろそろ気付く人にはわかってしまうのではないでしょうか
もしかしたら…と思っている方は次の23話にて答え合わせになるのかもしれませんね




