第2話「神の使い」
アルナは重い瞼をゆっくりと開いた。意識が戻ると同時に、頭の奥で鈍い痛みが響く。全身が打ちひしがれたような感覚で、体の隅々に戦場での傷が残っているのがわかる。荒れ狂うような戦いの記憶がぼんやりと蘇り、意識の中で揺れた。
「……助けてくれたのは、あの猫……?」
思わずそう呟くも、それが夢だったのか現実だったのか、確信が持てない。確かなのは、今ここが自分の家であり、包帯の巻かれた腕や薬草の匂いから、手厚く手当てをされているということだけだった。どうやら、戦場から戻されたようだ。
その時、部屋の空気が一瞬、張り詰めた。
ふと視線を上げると、部屋の隅に黒い猫が静かに座っているのが見えた。長い首を持つその姿は、どこか高貴で、しなやかな美しさを感じさせた。冷静で澄んだ瞳が、じっとこちらを見つめている。
「…あなたは何者?」
アルナは自然にその問いを口にしていた。猫は微動だにせず、ただ彼女の問いを受け止めた。その瞳の奥には、はかり知れない何かが宿っているように感じる。
しばらくの沈黙の後、猫は静かに答えた。
「神の使い。」
その一言に、アルナは驚きと戸惑いを隠せなかった。神など、普段は神話や伝説でしか聞かない存在だ。その神の「使い」だと言うのなら、何故、自分の前に現れたのか?疑念と興味が入り混じった目で、アルナは再び黒猫を見つめた。
「神の使い…?それが本当なら、どうして私の前に現れるの?」
アルナの言葉に、猫はしばし彼女を見つめた後、また一言、呟くように答えた。
「お前の問いを見守り、少しの答えを与える者。名はヴァレナ。」
ヴァレナ。その名がアルナの心に深く刻まれた瞬間だった。だが、彼の存在は彼女の思考を否応なく引きつけ、心の奥に言葉にならない疑問を残していく。その時、扉が静かに開く音がして、アルナは一瞬、はっと我に返った。
「アルナ、大丈夫?」
その声に振り向くと、幼馴染のエリシェが戸口に立っていた。心配そうにこちらを見つめるその瞳には、彼女の優しさと安堵の色が浮かんでいた。
「エリシェ……」
アルナは微笑みを浮かべながら、彼女の呼びかけに応えようと口を開く。
「戦場で倒れたって聞いて、ずっと心配してたのよ。」
エリシェは言いながら、そっとアルナの手を握った。その手は温かく、わずかに震えているのが伝わってくる。
エリシェの問いに答えながら視線をわずかに横に向けた。
「知恵とは何か?」
黒猫はそう残して壁をすり抜け去っていく。
エリシェには黒猫の姿も声も聞こえていないようで、何も気に留める様子もなかった。
アルナの無事を知って安堵したのか、エリシェはほっとしたように息をついた。
「ありがとう。無事に戻れたのは…運が良かったのかもしれない。」
そう言いながらも、アルナの心の中にはヴァレナの存在がちらついていた。神の使いだと名乗ったあの猫は何者なのか。そして彼が何故、自分の前に現れたのか。問いは尽きないが、今はそれを口にすることはない。ただ、エリシェの握る手の温もりに少しだけ安らぎを感じていた。
「ゆっくり休んでね、アルナ。まだ完全に傷が癒えていないんだから。」
エリシェはそう言うと、優しくアルナの手を撫でるようにして握り直した。その仕草に、アルナの胸の奥にほんのりと温かいものが広がっていく。
「ありがとう、エリシェ。」
アルナはうなずきながらも、心の中で『知恵とは何か?』というヴァレナの言葉に導かれるように、新たな問いを胸に抱えた。