第17話:「空に問うもの」
稽古場は朝から活気に満ちていた。砂埃が舞い上がり、アルナの指示で若者たちが武術の稽古に汗を流している。その中には剣を振る者もいれば、盾を構える者、素手で格闘技の訓練を受ける者もいた。
アルナは彼らの中心に立ち、時折身振りを交えて指導していたが、その表情はどこか冴えない。門下生たちの数は日に日に増え、彼らの熱意や期待は明らかだった。だが、それが彼女の内心を軽くすることはなかった。
「ねえ、アルナさん。」
横に立っていたルネが静かに声をかけた。
「なんだか今日は様子が違うように見えます。何か考え事ですか?」
アルナは微かに微笑み、首を横に振った。
「何でもないわ。ただ……私が彼らを正しく導けているのか、それがわからなくて。」
彼女の脳裏には数日前のイザベルとの対決が浮かんでいた。激しい戦いを制したものの、心に残ったのは勝利の喜びではなく、苦々しさだった。力が正しい道を示す手段ではないと知りながら、その力で周囲を引きつけている自分に矛盾を感じずにはいられなかった。
稽古場の隅で見ていたセレナが、少し首をかしげて駆け寄ってきた。
「アルナ、どうしたの?ぼーっとしてるけど。」
「ちょっと考えたいことがあるの。少し街を歩いてこようかな。」
「じゃあ、私もついて行く!」
「一人で行かせてほしいの。」
アルナの静かな言葉に、セレナは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに明るく笑った。
「邪魔はしないから!ちゃんと黙ってついていくよ!」
結局、アルナはセレナの申し出を断りきれず、二人で街へ向かうことになった。
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市場の通りは活気にあふれ、人々のざわめきと笑い声が響いていた。麦を選ぶ老女、子どもたちの駆け回る足音、商人たちの威勢の良い掛け声――街全体が平和そのものだった。
だが、その景色に囲まれながらも、アルナの足取りは重かった。
「アルナ、どうしたの?市場を見てる顔が真剣すぎるんだけど。」
セレナが心配そうに問いかける。アルナは一瞬迷った末に、小さく息を吐いた。
「ただ考えていただけよ。この人たち、それぞれ何を信じて生きているのかなって。」
セレナは目を丸くして立ち止まった。
「えっ、そんなこと考えてたの?いやいや、みんな普通に生活してるだけでしょ?」
その言葉を聞いてアルナは微笑んだが、その笑顔はどこか悲しげだった。
「ほら、ちょっと休もうよ!」
セレナはアルナの手を引き、近くのベンチに彼女を座らせた。
「気分転換に来たのに、また考え込んでたら意味ないじゃん。」
アルナは少し困ったような顔で俯いたが、セレナの気遣いには感謝している様子だった。
木々の間から差し込む日差しと、そよぐ風がアルナの頬を撫でる。やや硬かった彼女の表情も、少しずつ和らいでいくように見えた。
「よし、ここで待ってて!ちょっとおいしいものでも買ってくるから。」
セレナはそう言うと、ぱっと市場の方へと走り去った。アルナはその背中を見送りながら、深く息をつき、目を閉じた。
しばらくして、アルナは空を見上げた。青く晴れ渡る空には、白い雲がゆっくりと流れている。市場の喧騒は遠く、ただ風の音だけが耳に届く。
「空って、不思議ね……」
アルナはぽつりと呟いた。その言葉に何の意味もなかったかのように、しかし彼女の瞳には複雑な思いが宿っていた。空の広さ、果てしなさ。その存在に触れるたび、心が引き裂かれるような感覚に囚われる。
『どこまでも広がっているのに、手が届かない。でも、いつもそこにある。知恵って、空みたいなものなのかもしれない。』
その時、片手に焼きたてのパンを持ったセレナが戻ってきた。
「ほら!いい匂いでしょ。これ食べて元気――って、また空を見て何考えてんの?」
アルナは慌てて背筋を伸ばし、微笑みを作ろうとしたが、その顔はすぐにセレナに見抜かれる。
「そうやってさ…手が届かないものばかり追いかけてたら、足元の大事なものを見失っちゃうんじゃない?」
そう言ったセレナの表情には少し寂しさとアルナへの心配が感じられた。
「ねえアルナ、最近ね…市場でアルナの噂を耳にしたんだ。」
「私の噂?」
「うん、ちょっと気になることも言われてたよ。妙な考えを広めて、変わり者だとか……若者を集めてるのが怖いって。」
アルナは目を丸くし、それから小さく息を吐いた。
「変わり者か……たしかにそうかもしれないね。」
セレナは不満そうに頬を膨らませながら言った。
「変わり者だって言われても、私はアルナが優しい人だって知ってるから大丈夫!」
そう言いながら美味しそうなパンを一口頬張るセレナの様子を見て、アルナは少しだけ心が軽くなったような気がした。
だが、その束の間の静けさを破る声が響いた。
「あら、汝が噂の…『世界一賢い』と言われいている少女かしら。」
その声に振り返ると、気品あふれる彼女の瞳は鋭く、どこか挑むような光を宿している。
「思っていたより若いのね。」
セレナが警戒するように前に出た。
「誰だお前!」
女性は微笑みながら軽く頭を下げた。その整った顔立ちに完璧すぎる笑顔を浮かべている。しかし、その笑顔にはどこか冷たいものが滲んでおり、アルナは無意識に身を強張らせた。
「私はレイナ=アルフィス。姉から汝の話を聞いているの。」
その言葉に込められた親しげな調子とは裏腹に、彼女の視線は鋭く、まるでアルナを値踏みしているかのようだった。




