8月18日【刃の日】
"愛している"と言ってしまったなら、それをやりとおすべきだ。すべてを擲つべきなのだ。だって「愛する」っていうのは無私になることだから。我欲を捨てることだから。感情は要らない、廃人になることなんだよ。虫螻になることなんだ。だって、ひたすらに奉仕と献身の精神を実行することだからだよ?
だからすべて、赦されるべきだよね。誰にも、赦す・赦さないを決める権利も義務もない。だって決められていることだから。一度恋して、それがお互いに通じ合っているのなら、それはもう解消できない。「 愛」 だからだよ。蜘蛛の巣に絡まった蝶から無傷で糸を取り払うことはできない。きっとそれと同じこと。
人間は獣じゃあないんだよね? 子を遺すだけが能じゃない。人間には思想がある。信仰が。思考がある。ロマンスが。執着と意地と覚悟、決意と誓いがね。
他の人間に懸想したからなんだというの。その身を挺して自分を守ってくれなかったからなんだというの。愛を履き違えた愚か者が牙を剥いてきたからなんだというの。だってそれが人の営みだもの。裏切りごと愛する、不貞ごと愛する、弱さごと愛する。間違いごと。一方的であっても。それが愛でしょう。自分の傷のことなんて考える自我は要らないはずだ。一度口にしたなら、誓ったなら、成立したつもりでいるのなら、愛のためにすべてを擲つんだよ?
そうじゃないなら、人を愛する器量を自分が持っているのだと誤解しているだけだ。あるのは、愛さなければならない義務と、愛したいと思う権利だけなのに。
愛のために死ねないのなら、独りで生きるべきだ。
「そうだよね?」
隙間風のような音が聞こえた。僕が付き纏っていたカノジョは虫の息だった。カレシに滅多刺しにされて、もう長くは保たないんだろうな、って思った。
ひゅー、ひゅーって刺されちゃった肺から空気が漏れてるみたいだった。虚ろな目が僕を捉えて、一瞬驚いたみたいだけど、今はそれどころじゃないみたいだった。
「だから君は赦すべきだよ、カレシさんを。そうでなきゃ、あれはカレシじゃないよ。野良オスだよ」
猫が懐いたときみたいにカノジョはゆっくりと瞬きする。
「君は死ぬんだよ。愛に死ぬんだ。羨ましいね」
目を閉じて、また数秒かけて持ち上がる目蓋の下で僕を見詰める目は、全然怯えてなんていなかった。
「怖がりなよ。死神だよ、僕」
カノジョの目には色濃い隈が浮かんでいた。唇も色が悪い。
「救急車呼んでほしいでしょ。でも多分、助からないよ。それなら一緒にいようよ。どうせ死んじゃうんだから。そんな銀色の板っぺら1枚で。可哀想だね」
カノジョは罅割れた唇を震わせて、何か言おうとしていた。痙攣している手が僕のほうに伸びてきた。服を摘まれる。
君から手を伸ばしてくれるなら、僕は応えるけれど、でも、今更だな。
血が固まった手は表面は硬かった。でも皮膚自体は柔らかくて、初めて触れる憧れの人の肌は、多分いつもの状態じゃない。きっとこんな体温じゃない。一気に老けた。カノジョの元々あった余命が、この瞬間に押し寄せてきているみたいだった。
「このまま死んじゃいなよ。ちゃんとお墓参りしてあげる。ちゃんとお花、手向けてあげる。夏生まれだよね。ひまわり持っていてあげるよ。スイカをお供えしてね」
細い指をしていた。色が白くて、今では蝋みたいだ。赤いはずの血が黒く見える。
ありがたがって、人は死後の世界を夢想し、故人の姿や意思をそこに馳せるけれど、所詮は生者のエゴだ。死にゆく人に、一体何の慰めになる?
「もう悲しまなくていいんだよ。君は死んだとき、やっと愛なんてものから解き放たれるんだ。そうでなきゃ、赦すのが愛だからね。契約なんだよ。愛は試練なんだ。俗世間の人間が手に負えるものじゃない」
カノジョの乾涸びたような頬に、涙が落ちていく。
「君が憎いわけじゃない。僕は憧れていたよ。君が誰を好き、誰と付き合っても……今でも憧れているんだよ」
僕は上着を脱いだ。大量に血を失い、今でもまだ出血の続くカノジョに掛けた。僕の匂いに包まれて、弱かった呼吸がさらに弱くなっている。
「君の最期は僕が看取るよ。他の誰でもない。君のくだらないカレシでもなく……」
カノジョの頬を伝う涙を拭った。瑞々しそうに見えた肌が、今では萎びているようだ。
僕に握られていた手が、僕の指を擦り抜けて、震えながら胸に突き刺さった包丁に伸びていく。抜けば、さらに出血して、この子も……
「君はあのカレシを赦すべきだ。生きているあいだは。そしてあのカレシも、君のすべてを赦すべきだった。それが愛だからだよ。我欲と自己を捨てるべきだった。愛を裏切る者は赦せないな。君が望まなくても、僕はあの背信者を手に掛ける務めがある」
カノジョの瞳孔はすでに開いていた。包丁を握ったように見えた手は、枯れた花に似ていた。
僕はカノジョの目蓋を下ろした。その胸から包丁を引き抜くと、わずかに傷口から血が溢れ出る。その上で両手を組ませた。
死神に鎌は要らなかった。背信者への怒り。それだけだ。
我欲を捨て、愛に殉じないのなら、独りで死ぬべきだ。そうでないなら愛に誅されるのだ。愛が誅するのだ。
【完】