scineV-II 回復と追憶(2)
それから、彼女はいつもそばにいてくれた。
オレに微笑みかけ、話題を探しては話し、誰かが来ればすぐに消え、また現れては微笑んでくれた。
オレは知らず、それに気を許し、それに頼り、それに甘え。
そしてそれに幸せを感じ、いつしか。
何も要らなかったはずのおれハ、カノジョヲ────。
「────────ッッ!」
警鐘。
それ以上踏み込むな、今度こそ次はないぞと、自らの存在そのものが警告してくる。
────かまうものか。
その時、オレと彼女は確かにそこにいたし、
その時間というのは、確かにそこにあったのだ。
ならば。他でもないこのオレが。それを思い出せないなど、あっていいはずもない────。
男は再び回想を再開し。
そしてその物語は、やがて終局を迎えるのである。
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──12月24日。
世間で言うところの、クリスマスイブ。
聖夜……クリスマスの前夜であり、そして。
「……試験、明日までか?」
「……はい。明日で、私は天界に帰ります」
二人の顔は明るくはない。
男の顔は苦しげであり、天使の顔は、僅かに、悲しみに翳っていた。
「そっか。すまないな……結局、世話に、なりっぱなしで」
「そんな、ことないですよ。むしろ私は謝らなくてはなりません」
「……なんで、さ」
「結局私はあなたを幸せにしてあげることができなかった。
もっともっと、やりようはあったはずなのに。あなたにとって、ベストな行動を私はできなかったのです。ですから……」
「いいや────ぐ、ゴホッ! ゴフッ、ガ──ッ!!」
「だ……大丈夫ですか!?」
男が咳き込み、天使が慌てて背中をさする。
前の日、血を吐いている。
男の体調は、ここにきて絶望的に最悪。
医者も長くはないといっていた。
もしかしたら、今セーラと普通に会話できているのも奇跡的だったりするのかもしれない。
聖夜が最終日と聞いて、『そりゃ、天使の試験にふさわしいな』といっていた彼自身、その日を迎えられるかも怪しいと、自らの存在を見立てていた。
「──っ、──、────ああ、すまん。
けどな、ベストな行動を、できなかったから──とか、そういうのは、ちょっと違うと思うぞ」
「では……あなたは、今がベストな状態だと、そういえるのですか」
「ん……いや、そうは言わない、けどな。けど、オレは十分に、してもらった。
それに、元々最善なんて、望むべくもない。なかったんだ。
なら、次善次善でいいと思うし、キミは十分、やってくれた」
「そんな……あなたがそうネガティブでは……」
笑っていいのか、泣いていいのかわからない。
そんな具合に、混乱した彼女の顔を見て、『ネガティブとかそういう問題でもないんだけどな』と苦笑しつつ。
残された時間、セーラの試験、自らの幸せ、それらを思い。
「……わかった。それじゃひとつ、聞いてくれるか」
「! はい……!」
反射的にだろう、勢いよく返事をしてくれた彼女にまたひとつ苦笑を漏らし、男は告げる。
「うん……もう少ししたら、多分医者が来る。そうしたらもう、話はできないし、もしかしたらこれが、最期になるかもしれない。だから、先に頼んでおく。
もしオレの最期が、天界に帰るよりも、早かったら」
──そのときは、オレのそばにいて。出来るなら、一瞬でいい。キミの笑顔を見せてほしい────。
それが男の、最期の願い。
セーラは意識的に避けていた『最期』の話に一瞬、否定の言葉を吐きそうになったが、精一杯飲み込んで、笑顔を作って、それに答える。
「────はい。はい、かならず」
そして安心したように息をつき、目を閉じかける男にセーラはひとつ、付け加えをする。
「ですが、私からもひとつ、お願いします。
できるなら最後──少なくとも、私が帰るギリギリまで、生きていてください」
それは涙の微笑みによる、願いだった。
今まで男のため、男の幸せにつながる頼みだけをしてきた彼女の、最初で最後の、自分の願い。
そして、ここに入ってから誰にも必要とされることのなかった彼が、初めてされた、純粋な頼みだった。
「ああ──かならず」
そしてまもなく、医者が来る。
病室のドアが開くと同時に、セーラは姿を消し、更に同時に、ひとつの言葉を受け取っていた。
────ありがとう、セーラ。
姿無き彼女は、涙を堪え。
何もできることはないけれど、約束を果たすため、そばに居続けようと決意する。
医者が来て、看護婦がなにやら機械らしきものを運んできた。
つながれた点滴の袋が大きくなり、彼につながる線の数が増えた。
数時間の間に、病室内の人数が増え、慌しくなった。
やがて、彼の意識も、落ちたり覚めたりを繰り返すようになったようだった。
さらに何時間たったか、部屋の中の人数が減った。
ある意味で安定したのか、彼は虚ろに浅い呼吸を繰り返しているようだった。
医者が、家族を呼ぶように指示していたようだったが、両親ともに連絡がつかないとのことらしかった。
彼の両親は、これまでも殆ど見舞いにも来なかった。
セーラはそれを哀れと思った。
しかし、彼に言わせれば『そんな人たちに来てもらったところで、無駄に迷惑かけるだけでいいこともない』とのことだった。
けど、真意は最後までわからなかった。
更に、時間は経過する。
大して経ってもいないのかもしれないが、ともあれ体感は長い。
時間は────12月25日22:32。
と、眠っていたようだった彼が、薄く目を開いた。
苦しげな表情のまま、何かを探すように視線が動く。
──今しかない。
そう思って、セーラは男に近づいて、
「────────」
一瞬だけ。
ほんの一瞬だけ、姿を見せ、精一杯の微笑を作って、彼に見せた。
ほんの一瞬の、彼の最期に見せる、約束の笑顔。
その大事な笑顔を、うまく作れただろうかと、彼女は不安に思う。
「────」
医者たちは、患者の真横に突然現れて消えた人影に驚いているようだったが、どうでもいいし、それで固まっていてくれるならむしろ都合がいい。
いずれ幻覚や勘違いと、都合のいいように解釈されると、セーラは最期に近づいていく彼を、注視する。
先ほどの微笑みと、見えないが、しばらくともに過ごした彼だけがわかる、彼女の気配。
それを受けて、安心したように目を閉じた男の、唇がかすかに動く。
「──ありがとう。
安心しろ、オレは十分に、幸せ、だった────」
口元に顔を寄せ、その言葉を逃すまいとした彼女が聞いたのは、そんな言葉。
それが最後といっていい。
やがて彼は意識を失い、彼女はギリギリまで彼を見続け、天界へと戻っていった。
男の最期の時は、そのあとすぐ。
12月26日0:03───彼女の試験終了まで耐え切って、天界へ帰った彼女の後を追うように。
その男は、短い人生を終えたのであった。
死の間際、何も要らないと言っていた、その男が残した思い。
それは、『結局オレは、何も人のタメにはなれなかったな』という半ば諦観混じりの残念さと。
そして彼自身、求めるとは思っていなかった、もうひとつの純粋な想いだった。
──ああ。オレは何も要らなかったけれど。
ただひとつ、キミだけは惜しかったかも、しれない────
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