二十日目の夜
村に滞在を始めてから二十日が経過した。
嬢ちゃんはの訓練は順調と言って良いほどに進んでいる。このまま行けば間違いなく、ネックレスを取ることくらいは出来るという段階までは成長したと思う。
まあ俺にも意地があるし、そう簡単に勝ちを譲る気は無い。
どっちにしろ推薦はするだろうな思っていたとしても、それは勝負とは何の関係もない話だ。
「……本当、何むきになってんだか。あほらしい」
何故か熱くなっている自分に呆れながら、景色を眺めつつ貰った果実酒をまた一口。
上品に広がる香りとほのかな甘み。上質な玉果実特有の旨みを凝縮させた液体で喉を浸しながら、窓の外に浮かぶ景色を眺める。
いつもと変わりねえまん丸。女神の威光たるあの月は、今日も変わらず夜を照らし続ける。
……女神ね。冒険者なんて夢見な職やってても、いるのか定かではないくらいには縁のない存在だ。
月明かりに照らされる右腕を見ながら一つため息を吐く。
ま、そりゃそうか。今の俺は女神の祝福からは真逆の存在。こんなの宿した奴に柄付いてくるのなんて、それこそ勇者伝承にて倒されたあの邪神くらいだろう。
……勇者伝承か。そういや、あいつの祝福は何なんだろうか。
邪神カースラを討ち滅ぼし、世界を救ったとされる最初の勇者の話。その中に出てくる祝福の一つが、嬢ちゃんが持つ聖歌だ。
ただの物語なら別に珍しいことではない。事実、伝承や伝説にある祝福を持つ者が出てくることは良くある話。今の時代でも、西に強国ベントワールの大神雷槍や
だがこの伝承だけは別。園は足に出てきた三つの祝福は、有史において未だ一度も確認されてはいない。
故にその三つは始まりの最初の祝福と区分され、他の祝福と異なる扱いにされているのだ。
──黒き災厄が空へ還る刻、世界は再び三つの奇跡に選定されるであろう。
ふと、アルストリアにおける最初の物語の最後の一節を思い出す。
原本のみに記された記述。本文とは少し離れた位置に書かれており、まるで後から書き足したかのように浮いている一文だ。
この文の解釈は学者共の間でも未だ曖昧だ。
しかし三つの奇跡が最初の祝福を指すであろう、ということだけは統一されている。つまり最初の祝福が世に姿を現すこと、その事実こそが勇者伝承を肯定するものであり、厄災が起きるであろうと予兆ということになる。
冒険者だった俺が言うのもあれだが馬鹿らしいとは思う。最初の祝福なんてのは、幾多の伝説よりも笑われてきた眉唾でしかないのだから。
けれど、あんなに娘を思う爺さんが嘘をつく理由はない。普通の奴とは違うものが見える異眼持ちだからこそ、それが普通の祝福でないことがわかるのだろう。
「……あの嬢ちゃんの道行きも難儀よなぁ」
月に語るようにこれからの嬢ちゃんの人生に同情するが、生憎俺にはどうしようもない。
世界を変える存在と釣り合う人間でないことなんて、それこそ自分が一番よく分かっている。だからこそ彼奴等に紹介し、一緒に進める人間と歩を歩むのが理想なのだ。
……そうだ、だから俺には関係ない。……関係なんて、ねえはずなんだ。
振り切るように最後の一口を一気に飲み干し、靴を脱いで寝台に横になろうとした。
窓の外からふと動く人影を見かけた気がしたのは、丁度そう思ったときだった。
獣か盗人か。どっちにしたって見逃して損するのは嫌だと思い、一応周囲に目を凝らす。
すると特に隠れているわけでもなく、一人切り株に腰掛けている老人の姿があった。
(……爺さんか)
馴染みのある姿だったことに一応安心する。
大方、ちょいと夜風で涼みに来たって事……いや違うか。爺さんが抱えるもんってのは、俺なんかとは比べようもないほど重いもんだ。
死の間際になら何度も行ったことある。けれど、死の間際を抱えた経験は俺にはない。
俺の腕にある黒いもんみてえな、使えば命を削るなんてもんじゃない。文字通り命を蝕む死の病って奴に取り憑かれた奴の気持ちなんて、俺にはわかりようがない。
だから掛ける言葉も見つからない。そも同情出来る程親しくはねえしな。
俺も寝ようと窓を閉めようと思った。
その時だった。座っている爺さんが、少し震えたように見えたのは。
「──ちっ!」
窓から飛び降り、そのまま急いで爺さんの側まで駆け寄る。
「おい爺さん。大丈夫か!」
「……お、ジルバ殿か……」
呼吸と魔力を大きく乱しながらも、俺に気づいて声を上げる爺さん。
急いで胸に手を当て魔力の流れを確認する。竜晶になんてそこまで詳しくねえが、こうすりゃ一応は掴めるはずだ。
「……んだこりゃ」
内部を診て、思わずそう呟いてしまう。
魔力が乱れているのは残っている表面だけ。後は体の至る所が、肉でも骨でも魔力でもない何かに浸食されていた。
考えていた何倍も酷い状態だ。爺さんの尋常じゃない魔力量で無理矢理抑えているだけ、そうとしか思えないくらいには甘い様態じゃなかった。
こんな状態であってもなお、あれほど動けている爺さんの強さに驚愕しながら、安定させようと魔力を流す。
流し始めて十秒ほど経つと、過呼吸かと思えるほど大きく乱雑な呼吸が落ち着き、爺さん自身の魔力が浸食を塞き止める。
……なんて爺さんだよ。ほとんど自力で進行を食い止めやがった。
「……すまんのうジルバ殿、本当に助かったわい」
「気にすんな。助かったのは爺さんの力だ」
「いやいや、今回はちとまずかったからのう。助力のおかげで早く戻れたわい」
羽織っていた上着を枕にして姿勢を落ち着かせると、爺さんはこちらに礼を言ってくるが、過分な謙遜にしか聞こえなかった。
爺さんの呼吸は大分安定してきた。もうちょっと経ったら部屋まで送ってやろうと思いながら、切り株を背にして地面に尻を付ける。
「……あんな無茶な止め方で凌いでんのか。あれじゃあ地獄見てーな痛みだろうに」
「ほっほっほ。少しばかり耐性があるんじゃよ、老人にはのう」
魔力症で最も痛みを伴う抵抗しといて何が少しだよ。俺じゃあ多分耐えられねえくらい、絶え間なく苦痛が続いているだろうにな。
つくづく爺さんの強さには感心する。戦えば負けることはねえだろうが、こと心を競うことがあるなら勝てる気がしねえな。
「……いよいよ誤魔化しも通じなくなってきたわい。ジルバ殿には以前一月と言ったが、どうやら当たりそうじゃのう」
爺さんは自らの限界が近いことに落胆することなく静かに静かに笑う。
「……のうジルバ殿。以前の話、考え直してくれはしないかのう?」
少し間を置き、爺さんはそんなことを言ってくる。
何のことだと、そう誤魔化すには大きすぎるほど、その悩みは俺の心を巣くっていた。
「……なあ、前にも言ったが俺はもう降りた身の盆暗。世間様から見りゃあ、根無し草の方浪人でしかねえんだぜ。何だってそんな奴に、大事な大事な宝を預けようとするんだ?」
爺さんの心が変わるようにと祈りながら、なるべく汚い表現で俺は俺自身を嘲る。
だが爺さんはそれに僅かに笑うばかりで、これっぽちも求めた返事を返しては来なかった。
「答えは前と変わらんよ。儂が見てきた冒険者の中で数えられるくらいには誠実で不器用な男、決して弱い負け犬などには見えなんだ」
どこまでも、どこまでも優しい声色。遠き過去に眠る両親の記憶と重なるくらいには、人を想う慈愛の言葉に聞こえた。
「それに、お前さんはまだ折れておらんじゃろう? そうでなければ、夢を語りながら育つシアの姿になぞ何も思いやせんじゃろうに」
図星過ぎて嫌になるくらいには、爺さんのこと言葉は的を射ていた。
……その通りだよ、くそったれ。
「……仮に、仮に俺がそう望んだとしてもだ。死に際に引き離す俺みたいな畜生じゃねえ、まともで善良な奴に預ける選択の方があいつのためになる。それを分かっても、あんたはなおそうすべきだとでも──」
「──ジルバ殿。大事なのはあの娘がどう望むか、そう教えてくれてたのはお主じゃろう?」
仕返しをやり遂げた子供みたいな声でこちらに言葉を返す爺さん。俺は逸らす必要なんてないのに、思わず空に目を逃がしてしまう。
雲一つすら遮ることのなく、世界を照らし続ける丸い月。その輝きは俺の今とは正反対、そうあれたらと思いながらも、その踏ん切りにあまりにも届かない。
だから少女が夢を追う姿に感化されてしまいそうになる。つくづく弱く軽い心だと嫌になる。
『──そうとも。お前は弱い。お前は一人では何も為せない弱者でしかない』
「……そろそろ落ち着いただろ。おぶってやるから戻ろうぜ」
腕の中で俺に囁く黒を無視しながら、爺さんをゆっくりと背中におぶった。
爺さんとは不自然なほど重い体に一瞬ふらつきながら、揺らさないようにゆっくり歩き始める。
「……どうか、どうか宜しく頼みますわい……」
再び眠ったであろう爺さんのか細い願いが耳近くで囁かれる。
返す答えは今はない。だからそれを聞かぬ振りをする自分を嫌になりながら、家に歩を進めていった。




