第9話
それから、長い間アタシは泣き続けた。外からは蜂蜜を垂らしたような光が差し込んできていた。
「ごめん、なさい。泣いちゃって……」
「別にいい。それに怖い思いしたんだし、泣いても仕方ないって」
そう言いながら周良君はアタシの頭を優しく撫でてくれた。
「あのね、アタシ言わないといけない事、あるの」
「俺もある。言わないといけないって言うより言いたい事だけど」
「言いたい事?」
「ん、だけど、先に緑が話していいよ。俺は後からでいいし」
そう言われたからアタシはもう一人のアタシの事を話し始めた。
話を終わった後、暫く周良君は何かを考えているような風で黙っていた。
そして、周良君はやっと口を開いた。
「……それって、多重人格ってやつ?」
「アタシは少し違うと思ってるけど、多分周りから言わせてみたらそうなんだと思う」
「……なんかムカつく」
ぼそりと周良君が呟いた。それにはアタシは押し黙る事しかできなかった。
「なんか緑の側にそいつが一番近くに居るっていうのがムカつく」
「えっ?」
てっきりアタシに対して言ってるんだと思ったら、もう一人のアタシに対して言っていたから驚いた。けれど、それ以上に周良君の言っている意味がいまいち理解できなかった。
「だってさ、俺よりずっと近くに居て緑の事知ってるって事じゃん。しかも、男……」
「えっ、でも、男って言っても何ていうか実体が無いっていうか……。
それよりも、周良君は変とか気味悪いって思わないの?」
「何で……」
「何でって……」
思わずアタシは言葉が詰まってしまった。
「そんなのさ、緑は緑じゃん。別に変とか思わないし、気味悪い訳ないし」
「でも、アタシが変だって言われだした理由がコレだし……」
ずっとそうだったけど、もう一人のアタシとは絶対に切り離す事は出来ないし、アタシが離れたくなかった。
だから何言われても平気な振りをするしかなかった。どんなに辛くても慣れれば平気だって思って……。
「そんなん周りが勝手に言ってるだけじゃん。緑は変じゃないし、俺は少なからずそう思う」
「……ありがとう」
「べ、別にお礼とか言われるようなんじゃないし!」
真剣な目をしていた周良君は、アタシがお礼を言うと吃りながら真っ赤な顔をしていた。
「でも、そう言ってくれたのは周良君が初めてだったし、嬉しかったから」
「そ、そっか。でも、俺そんな大した事言ってないし」
「そんな事ないよ」
アタシがふわりと笑うと周良君は何故か目線を逸らした。
アタシそんな酷い顔してた? そんな事を思うと久しぶりの声が響いた。
『絶対違うし』
その声に周良君に聞こえないほど小さな声で尋ねた。
「どういう事?」
『聞いてみればいいだろ? あいつだって言いたい事あるって言ってたんだし。
俺は奥の方に引っ込んどくし』
よく分からないが、もう一人のアタシは完全に引っ込んでしまったし、周良君は相変わらず目線を逸らしていたから尋ねてみた。
「周良君の言いたい事って何? さっき言いたい事あるって言ってたけど……」
「えっ、あっ、その……」
周良君が何か変だ。いつもはなんか異常なほどに自信を持った感じで堂々としているのに、さっきからと言うべきか凄く情けない感じになってる。
でも、そう思ったのも束の間で、周良君はぐっと足に力を入れてこっちを真っ直ぐ見てきた。
「緑は俺が最初に緑の事見た時の事覚えてるか?」
そう言われてからアタシは最初に周良君と話した日の事を思い出した。
あの時、周良君はアタシがもう一人のアタシと話しているところを見たと言っていたからその日の事を言おうとしているんだと思い、アタシは頷いた。
「あの時さ、緑は笑っててさ、しかも今みたいに夕日が綺麗に照らしててさ」
周良君はそう言っていたけど、アタシは笑っていたつもりは……ないとも言えないけど、どちらかと言うと見ててそんなにいい顔ではなかったような気がする。
「それでさ、緑の事可愛いって思った」
周良君のこの言葉でアタシの頭は一瞬フリーズした。ん? 可愛いって言った?
「何か信じられないって顔してるな」
「だってアタシ、可愛くなんかないもん」
アタシの事を可愛いなんて言う人は見た事ないし、絶対ありえない。
「俺は可愛いって思ったし、興味を持ったから話してみたいって思った。
だから、あんまし朝早くに学校なんか来ないのにその日は早く来たんだよ。
でも、朝はやっぱ苦手だった所為か待ってる間に寝ちまったけどな」
だからあの時寝てたのかとか思ってしまったが、それでも可愛いは有り得ないだろう。
「アタシ、可愛くないよ。目、悪いんじゃない?」
「はっきり言うな~。まあ、緑らしいけどな。それと、俺両目とも二・〇あるし」
視力じゃなくて思考だろうか? と思わず思ってしまった。
「本当に自分が可愛いってことは否定するんだな」
「だって、可愛くないもん」
「それはもう何回も聞いた。でも、俺は可愛いと思うし、緑の事が好きだ」
「……は?」
周良君の言っていた事が分からなかった。言葉は分かるが、頭が理解を拒否していた。
「言っとくけど、好きって友達とかじゃなくて一人の人間としてだぞ」
周良君のその言葉はアタシには追い討ちにしかならなかった。
「そ、そんな事行き成り言われても……」
アタシの言葉はどんどん消えていきそうだった。そんなアタシに対して周良君は苦笑していた。
「緑がそう言うのに疎そうのは何となく分かってたし、すぐに答えを出してくれとは言わない。緑が返事したい時に返事してほしい」
そう言われてアタシの顔は見る見るうちに真っ赤になった。
「あはっ、やっぱり可愛いな」
周良君はそう言いながらアタシの頭を撫でてきた。
その所為でアタシはボンという音がしそうなくらいに真っ赤な顔になった。
「ア、アタシもう帰る!」
慌てて帰ろうとしたが、周良君に手を掴まれて阻止された。
「だったら一緒に帰ろうぜ」
にっこりと笑っている周良君の手を振り解けるわけもなく、一緒に帰る事になった。
家に着くとアタシは慌てて自分の部屋に駆け込んだ。
もう一人のアタシと話がしたくて眠ろうとしたけど眠れるわけがなかった。
「出てきてよぅ……」
アタシが弱々しく言っても出てきてはくれなかった。
「アタシ、どうしたらいいんだろう」
今日あった出来事が頭の中をぐるぐると回っていて、すごく混乱している。
こんなの一人で解決できない。いっつももう一人のアタシが話しかけてきてくれてどうにかしてるのに、こんな風に一人じゃ何もできない。
自分がどれだけなにもできなくて、弱いのかを思い知らされた気がする。
アタシは結局、その日はまともに眠る事も出来ず、もう一人のアタシとは話す事ができなかった。
その為、次の日はアタシは目の下にクマが出来ていて酷い顔をしていた。
「うわ、酷い顔してるよ。どうしよう……」
『確かに酷い顔だな』
鏡を見て独り言を言っていると行き成り中から声が響いた。
「ちょっと、アタシが昨日何回も呼んだのに出てこなかったくせに、なんで今頃出てくるのよ!」
『悪かったな。色々あったんだよ、こっちも』
「馬鹿、出てくるんならもっと早くに出てきなさいよ」
悪態吐きながらも、出てきてくれた事にアタシは安心した。
『馬鹿って酷いな~。でも、学校どうする気だ? その顔で行くつもりか?』
「流石にこの顔では行かないわよ。でも、学校は休むわけにはいかないし」
そう言いながら、アタシは冷たく濡らしたタオルと温かくしたタオルを用意してから交互に目に当てた。
それを何度か繰り返してから鏡を覗いた。
「少しはマシになったかな?」
『大分とマシになったな』
「そう? じゃあ学校行こうかな」
『ああ、そうだな』
少し笑みを浮かべてからアタシは家を後にし、学校へ向かった。
学校では普通の日常が過ぎていった。
ただ、少し前に戻ったわけでも、昨日までの状況が続いたわけでもなかった。
普通というのはただ授業を真面目に受けて、平和に学生生活を送るというものだった。
だが、アタシの心は平和や平穏とはほど遠いものだった。だから昼休みにぼやいた。
「何で会いに来ないわけ?」
『告白したから会いに来難いんじゃないのか? 返事だってまだもらってないわけだし』
アタシが小声でぼやくとそんな声が返ってきた。
まあ、アタシも返事の事聞かれたらどう答えたらいいか分からないから困るけど……。
「今思ったけど、アタシって初恋すらまだなんだっけ……」
アタシがそう呟くと、静かな教室に居た数人の人たちは動きを止めてアタシの方を見てから、こそこそと話し始めた。
アタシ、何か変な事でも言ったかな?
意味が分からず首を傾げていたら中から声が響いた。
『普通の女子中学生は初恋なんて疾う昔に経験してんだよ』
そういうものかとぼんやり考えていると三人組の女の子がアタシに話しかけてきた。
「あの……」
「何?」
アタシがそう言うと女の子たちはあんたが聞きなさいよとお互いに言い合っていた。
暫くすると誰がアタシに聞くか決まったようで一人が話しかけてきた。
「あの、山口さんって本当に初恋、まだなの?」
「そうだけど、何か?」
割と小声で言ったつもりだったのに、意外とみんなしっかり聞いてるのね。
「えっと……、好きな人とかも本当に居ないの?」
「アタシ、好きっていう感覚がいまいち分からないから」
問題はそこなのよね。好きって言うのが分からない。もちろん、愛とかも分からない。
だから初恋なんてあるはずがない。
「えっ、じゃあ、武井君の事、どう思ってるの?」
この質問にアタシはフリーズした。えっ、この人、昨日の事知ってるの?
「あの、山口さん……?」
この呼び声にアタシははっと覚醒したが、頭はうまく動いていない感じだった。
「何で、そんな事聞くの?」
アタシは冷静に振る舞おうとしたが、その所為で怒ったような声を出してしまった。
「あっ、えっと……、なんか、仲良さそうだったし……」
昨日の事を知っているわけじゃないようでほっとしたが、その事を表に出さないようにした。
「確かに仲はいいかもしれない。だからと言ってそういう事聞かれても答えられない」
本人にも返事をしてないのに他人に答える気にはなれなかった。
「あっ、ご、ごめんね」
そう言って、三人組はそそくさと去っていった。
でも、本当に返事を考えないといけないと思った。
その所為か、午後の授業の内容が全くと言っていいほど頭に入らなかった。
そして、アタシは放課後、机に突っ伏していた。
「はあ、返事、どうしよう」
誰もいない放課後の教室でアタシがそう呟くと、そっと音が聞こえた。
それは声ではなくアタシの中から響く音。
今まで聞いた事ない音に少し戸惑う。
でも、その音が言っている。もう心は決まっていると。
「本当は分かってるんだろうけどな……」
『分かってるんなら返事してやったら?』
「でも、怖いのよ。言う勇気が無いの」
『甘えんなよ。向こうだってかなり勇気要ったと思うぞ、告るのに』
「……ん、そう、だよね。」
そう言ってアタシは立ち上がった。
「心は決まってるんだし、返事してくる」
『頑張れよ』
その言葉に頷いてアタシは教室を後にした。




