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このお話は、時代設定が昭和初期でノンフィクション風ですが、あくまで想像の世界のお話です。史実とは一切関係がありません。
歴史は、一人の何気ない疑問から動き出す、と言っても過言ではない。
もしもあの時、一人の老人が子どもの遊びに違和感を覚えなかったら……。
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193X年の師走のある朝。
風冴ゆるQ町の真ん中にこぢんまりとした商店街があり、そこから奥まった所に軒を並べる平屋の一つに、江戸時代末期から続いている旧家があった。
全体の作りは周囲と比べて古めかしいが、引き戸だけは新調していて、そこだけ他よりも新しい時代を感じさせていた。
今、その引き戸が長い音を響かせて開かれ、一人の老人が杖を突いて、のっと現れた。
和服の上に鼠色のコートを羽織り、外国産の再生舶来物の帽子を被っている。黒縁の丸眼鏡の奥には年齢には似合わぬ輝いた目が覗いていて、表情も知性を感じさせ、もしかしたら昔は教授か師範だったのかも知れないという雰囲気を漂わせている。
老人は鼻の下のキレイに切り揃えたちょび髭を軽く撫でた後、両手を杖の上に乗せ、どんよりとした空を仰ぎ白息を吐く。そこへ寒風が体へまとわりつくように去って行くと、身震いをして、首に巻くマフラーを顎まで伸ばした。
「こんな寒空では、遊ぶ子らもおるまい」
そんな独り言をポツリと口にすると、背を少し曲げて左へゆっくりと歩き始めた。
そこへ、開け放たれたガラス戸の奥から年老いた柴犬がのっそりと顔を出し、掃除の最中で手が離せなかったという様子で手を拭き着物を叩く女中が履き物を突っかけて表に出てきた。
「先生、行ってらっしゃいまし」
腰を折って礼をする女中とゆっくり尻尾を振る犬に見送られた老人は、十歩進んだところで急に立ち止まった。
「おっと。今日は近道をするかのう」
この尋常ではない寒さが身に堪えるので、散歩の時間を短くすることを思いついたらしい。家を出て右へ行く散歩道の方が、10分ほど早く家に帰れるからだ。
方向転換した老人は女中と犬に二度目の見送りを受け、昨夜の小雨でぬかるんだ道に残る足跡に、歩幅の少ない足跡と杖の跡を加えていった。
年中季節感のない平屋の区画を抜けて大通りに出ると、風景は一気に師走の様相を呈する。
商店街に溢れるポスターやら昇り旗と、それに加わる店員の呼び声が買い物客の心をくすぐり、見事その心をつかまれた者は店内へ吸い込まれていく。
箱満載の荷車が老人を追い越していく。大衆向けの珍しい乗用車が、威張って鼻を突き出しながらガタガタと揺れ、排気音を残して過ぎ去っていく。
そんな喧噪に別れを告げた老人は、近道である裏道へ入り、前方の視界に入った高台を目指した。
ちょうど真ん中に長い石段が見える。
「あの石段を、のぼれんくなったら、おしまいかのう」
石段に沿って頂上まで視線を向けると、城のような洋館が胸を張っている。元は貴族のお屋敷だったのだが、今は改築されて小さな美術館に生まれ変わった。
美術館の前にあるベンチが老人のお気に入りの場所だ。そこに座れば、眼下に街を一望でき、いつ来ても実に爽快な気分になるからだ。城下町を見下ろす殿様の気分はこうだったのかも知れないと、思いを馳せることも出来る。
その眺めは、石段を苦労して上り詰めることで手に入れられる。そして、心地よい達成感に満たされ、ベンチに腰を下ろして見渡す限りの街並みを堪能出来る。
これで元気が湧いてきた老人は寒さも忘れて歩み続け、あと30メートルくらいで石段にたどり着く頃に小休憩を取った。
と、その時、手前の四つ角の右手から三人の子どもが現れ、石段に向かって走って行った。