2翼目 冬は近い
窮山は幽谷にして人足を遠ざけ、王冠を戴く頂点は無垢なる白を纏う。
その山にこそ、彼等の住まう屋敷がある。石材を主として組み上げられたその屋敷は重厚ではあるが、それ自体は特異なものではない。切り出した石を積み、漆喰で隙間を埋め、少し離れた所には納屋と薪割り場が並んでいる……そう、ありきたりなのだ、それが高山、高木すら早々伸びぬ程の高度にあることを除けば。
遠方を見やれば、辺りは背の低い草花や苔が茂るのみで、それが本来のこの山であるのだろう。屋敷とその周辺、大穴の空いた山肌まで続くその不可思議な山林地帯。浮き上がるように外へと身を躍らせた僅かな空間が、その屋敷が尋常の技で作られたものでないと示している。
それの傍らで、文様の施された毛織物を被り、1人の少女が椅子に座っている。不意の横風に銀灰色の髪がざらりと流れると、彼女は黄みのある赤の眼を細め、瞬膜を横合いからつぃ、と閉じて遮った。風そよぐまま震えているのは、腰から伸びた彼女の翼肢である。古き鉄のようにぼけて光沢を失った灰色の鱗は、陽の光を反射もせずにされるがままで、それすら幾つも毀れている。肩に掛けられたストールを支えるようにか、細く長い尾が―これも翼肢と同じく、傷んだ鉄の様相であったが―しゅぅ、と身体に巻き付くようにして肩まで上がると、布地を押さえつける。
それを見れば誰もが理解するだろう。彼女はきっと、人ではなかった。
「少しばかり、冷えるようになってきたねぇ、ええ、ええ、風が凍え始めている……冬が来るねぇ、寂しくない冬が」
「寒いなら中に入れば良いでしょうに、今に陽が落ちて、一層凍えてしまいますよ」
小屋の一つから顔を出した青年は、18かそこらだろうか、傍らに使い込んでいるらしい手斧を抱えている。
「ははは、そう言うな、大気は冷えているが、吾は凍えてはおらんよ、ふふ」
嬉しそうに服を閉じて、しゅうしゅうと龍の少女が笑う。
「そも、此処より一層高い所を飛んでおったのが吾だ、これしきでへたばるなんて軟弱じゃぁないねぇ」
「今の話では無いでしょうに……其の内に戻ってくださいね、私はまだ薪割りの途中なので」
「薪割り、薪割り、ね……」
仕方のない方だ、と男が離れようとすると、彼女は音もなく椅子から飛び降りて―滑空するようにふわりと―彼の眼前へと着地する。
「欲しくは無いかい? 薪よりも長く、炭よりも強く、地上にあって太陽の如く輝き続ける無上の炎。それがあれば、日々の火種起しに煩わされることも無くなるだろう……お前はそれを、求めないのか?」
縦長の瞳孔がぢっと見つめている。男はまた一つ溜息を吐くと、龍の頭を優しく、角を避けるようにして撫でる。
「それは便利ではあるが、必須ではない。何より対価に見合わない。試すような物言いは、程々にして欲しいのですがね」
彼女は満足そうに深く眼を閉じて暫く撫でられるに任せ、存分に堪能した後、漸く口を開いた。
「そうは言うが、なぁ。こればっかりは龍の本能だもの。人を試し、人に挑まれ、人による超越を以て己の価値を完成させる。吾が鱗の一片に至るまで、死した後にも尚、人に力を与えるものだから」
「龍の、性質の話ですか」
軽やかなステップで男から離れると、龍の少女は掌を天に向ける。
「龍は神であり、星である。意志を持つ自然であり、遺志を託されし善である。それは作られたものであり、今は亡き地層世界の総てである。揺籠を継承した鋼鉄、吾こそが地表世界の観測者であり、庇護者であり、偉大なる献身を継ぎし者である……などと、言ってみるのも悪くないやもしれんなぁ……」
ふふ、ちょいと照れくさくはあるが、なぁ、と、くしゃりと歪めた其の顔は泣き笑いのような優しい顔をしていた。
「……見ていてくれるのだろう? 龍を、最期まで」
小首を傾けた龍の女に、山風がざわりと吹き込んで搔き乱す。男は風上に立ち、彼女の背中にそっと触れる。
「飛んではいけませんよ。今の貴女はそのまま何処かに行ってしまいそうだ」
「ははは、怖がりな坊やに戻ってしまったかい? ……大丈夫だとも、向い風に乗った所でもう飛べやしないんだ、家に戻ってお前を待つとするよ、お前の戻ってくる場所を、吾が守ってやるとも」
しゅう、しゅるりと、龍の女が喉を鳴らす。ほれ、薪割りが途中だったなぁ、頑張っておいで、と、今度は反対に龍が男をけしかける。
「夕食にはあったかい山羊乳のシチューと、やらかいパンを出して上げようなぁ」
「ホットワインの一つもあれば、それは一層上等ですな」
ふふ、と二人して笑い合う。この後続ける言葉は、いつも決まっているのだ。
「「スパイスはしっかり効かせて」」
「ええ、ええ、分かっておるよ……いってらっしゃい、愛しい人」
「暗くならないうちに戻ります、それでは」
人間の男が遠ざかってゆく、けれども寂しさばかりではない。寒い冬に備えなければ。龍の少女は少しだけ目を閉じてから、屋敷の中へと戻っていった。