1翼目 龍の童女と愛しいひと
定めの龍と寄り添い生きる、それだけの話。
大気は澄み、そして乾いている。山腹の白雲も今日は暁光に追い回されて散り散りになったのか、麓の集落が小さく眼に映る。勤勉な人々は競うように起き出して、やれ小麦畑へ、葡萄棚へ、はてさて山羊の放牧へと忙しなく動き始めるだろう。
溌溂と漲る生を謳歌する、そうあれかしと彼女の望んだ、それが人界の有り様だろう。
――どうか、どうか
望むまま、望まれるまま、定命たるその生を謳い上げられますようにと、彼女は願ったのだ。
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夜明けの匂いで眼を覚ます。隣で眠る彼女を起こさないよう、そっと寝床を抜け出して、朝のコーヒーを用意する。ミルで砕いた豆かの薫りが起き抜けの頭を刺激する。熱湯にて豆の味を抽出し、揃いのカップにそっと注いで、シュガーポットを傍らに。
トレイを持って寝室に戻り、サイドテーブルに座って口に付ける――ああ、今日も良い日になるだろう。
彼女の眠る天蓋の付いたベッドに眼をやる。種々の布飾りや深藍を基調に金糸銀糸を用いたカーテンが四柱式寝台を飾り、さながら星天の如きそれを、螺旋を描きながら支えるのは、四柱のソレを象った木彫細工も息を潜めて彼女を見守っている。ヘッドボードには“石の輩”によって構築された象嵌細工が鎮座し、それは一つの星を顕している。
彼女は常の様に半ばうつ伏せに身体を丸め、群青のローブに身を任せている。蕾開く前の、少女というより童女と言ってよいその体躯の隙間から翼と尻尾を身体に巻き付けるようにして、卵を守る親鳥のように眠っている。神へ捧げる供物のように、一枚の絵画のように、差し込む暁を受け、光り輝く彼女の姿を、誰が侵せるだろうか。
――そうして、彼女が龍であることを思い出すのだ。白に近い灰色の髪は纏りなくザラリと流れ、顔を半ば覆っているが、呼気に触れて僅かに揺れている。所々皮膜の破れた翼は痛々しくもあるが、それでも龍たる童女の静謐には何ら瑕疵がなかった。
ふと動きがあったかと思うと、視線に眼が覚めたのか、銀灰色の帳越しに彼を見つけ、嫌だねぇ、もう、と恥じらって見せる姿のなんと愛しいことか。
男は徐ろに立ち上がると、ベッドへ腰掛けると彼女をそっと抱き寄せ、額を擦り付ける。途端に深雪の如き顔が、ほぅ、とダリアのように紅く華やぎ、その尾が甘えるように腕へと絡み付く。指先で鱗の目に沿って静かに撫でつけると、はぁー、と彼女が深い息を吐くのが分かった。
目覚めたばかりの唇を二、三度啄むと、彼女はすっかり機嫌を直したようで、ふふ、と優しく微笑った。
「おはよう、愛しいひと」
良く眠れましたか、と問うと、
「えぇ、えぇ、貴方が隣におりますからねぇ……愛しいひとの熱が、吾を温めてくれたのだから」
と、寝起きの音色で彼女は応える。
互いの名残を惜しみつつベッドから降りると、彼女は少し温くなったコーヒーに砂糖を落とし、精緻な指先でスプーンを廻し、口に含んだ。温め直しますか? と問いかけると、いいえ、この位が丁度良いよ、と彼女が笑う。
「ふふ、良い夢を見ておったよ。暖かな昼陽向の夢、安穏で、何処か間抜けなくらいに愉しくって、そうして誰もが其処で笑っていられるんだ。貴方を連れ立って行けるなら良かったのにねぇ……」
それは惜しいことをしました、と男が返すと、ええ、本当に、と口元を隠してまた小さく微笑う。
「さて、起きねばなぁ、貴方の淹れてくれたコーヒーを頂かなくては」
「今日も良い出来ですよ、苦味が寝起きに良く効きます」
「おや、それは楽しみだねぇ、嬉しいなぁ、今日も、明日も、貴方が隣にいるのだから……苦労をかけるが、宜しく頼むよぉ」
はいはい、と空返事で立ち上がろう、と、した所で彼女の手に留められてしまう。振り返る間もなくするりと回り込んだ両の腕がしっかと男の胴を掴んで離さない。
「ありがとう、人の子、愛しいひと、あなた。吾はお前に何を返してやればいいのだろうなぁ……、いずれは止まる器の身、それでもお前を望み、願い、求め、愛し……そしていつか止まる。お前とどちらが先か分からないが、それでも化身たるこの身には、人の身なりの年月しか残されてはおるまいよ。……お前の残りを全部貰ってしまって……痩せたこの身一つで、どうしてお前に報いてやれるだろうねぇ……」
――もう、お前に空を見せてはやれない。
顔も見せずに呟くその声音は曇天の如く鈍色で、雨を予感させる湿り気を帯びている。
男は溜息を一つ吐いて身を回すと、弱々しく抱きついていた龍の女をずるりと引き上げて、宥めるようにその背を擦る。絹製の滑らかな寝間着越しに背なを、隆起した骨を、腰羽根の付け根を静かに撫でると、糸玉を解くように少しずつ彼女の蟠屈が溶けてゆく。
「それでいい、それでも……報いが欲しいのではなく、貴方の傍に居る、そう決めたのだから。……貴方が私を厭うでもなければ、こればっかりは覆さない」
彼女は、しゅぅ、しゅるり、と独特な呼気を吐いて眼を瞑ると、それは、嫌だなぁ、と噛み締めるように呟いた。
「なれば――仕方のないことさなぁ。地に在りて共に生きよう、生き抜こう、其の方がずっと良いさね。それが赦されるならば、吾は青空だって惜しくはないよ……お前に全部、預けよう、お前の全部を貰うんだ、ソレくらいしなくっちゃあなぁ……」
「……辛いのですか」
男が気遣わしげに問いかけると、彼女は角を押し付けて、小さく呟く。
「怖くはないよ……それが、吾の役目だもの。誰かの為に……愛しい、小さな命のために、それだけはやり遂げなくっちゃなぁ……」
顔を上げ、稚児をあやすような顔で、彼女は笑うのだ。
「……さぁ、コーヒーを飲んだら顔を洗って、着替えてください。身支度をしましょう」
「うん、そうだねぇ……、ああ、また髪を結っておくれよ、最近はあれが気に入ってなぁ」
「ええ、ええ、お任せあれ、全て善きように、望むように」
龍たる童女に合わせるように微笑む男。顔を覗かせた太陽だけが、彼らを見ていた。
世界はまだ、彼女を求めてはいない。だが何れ、いつの日か。彼女の逃れられぬ宿業、それから、誰が救ってやれるというのか。