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「よ……依子様が……沢山、血を流されて……!」
お手伝いの梶山メイ子が、金切り声の後で居間に飛び込んで来たのは、22時を回った辺りのことだ。
齢60歳に手が届く彼女は、尋常ではない顔色で身体を震わせながら、やっとそれだけ報告した。
「依子が……何だって?」
奥のソファーで、僕とチェスに興じていた西條剛志が、最初に顔を上げた。琥珀色の液体が1/3ほど入ったバカラのグラスを、チェス盤の隣に冷静に置く。薄く日焼けした肌に酔いの兆候はなく、意思の強さを示す眉を怪訝に寄せるも、マスクの甘さは変わらない。30代前半にして、当家――西條グループの一角を担う青年実業家だ。
「呼ばれて……お部屋に、お紅茶をお持ちしたんです、そしたら、倒れてて、あ、辺りが、血の海でっ」
へたり込むように、メイ子は居間の入口付近に崩れた。
僕は、正面の剛志と一瞬顔を見合せたが、すぐに彼女に駆け寄り、ソファーに座らせた。
「すみません……先生」
「いえ、これを。彼女の部屋を見てきます」
ガタガタと震える両手に、水差しから注いでグラスを握らせる。
「何よ、騒がしいわね」
白いマスクの怪人――ではなく、美容用の保水マスクを付けた女性、西條芙美子が現れた。トレードマークの赤い薔薇模様が大胆に織り込まれた、シルクのナイトウェアを身に纏っている。
「姉さん。依子が倒れたって」
「はぁ? 何それ、大袈裟ねぇ」
くるくる巻いた肩までの茶髪を弄りながら、呆れた声を上げる。
「ただならぬ様子らしいので、見てきます」
美容マスクの穴から覗く眼差しに、苛ついた感情が走る。芙美子に一礼すると、僕は剛志と居間を出た。
毛足の長いカーペットが敷かれた階段を駆け上がる。バタン、と扉の開閉音が聞こえた気がするも、2階廊下には誰もいない。医療鞄を取りに自室に寄ることも過ったが、思い直して、廊下奥の右手の部屋へ急いだ。
開いたままの扉の隙間から、明かりが溢れていた。入口の床で、砕けたマイセンの残骸がアールグレイにまみれている。その香りに混じって、生臭い異臭が嗅ぎ取れ――。
「うわっ!! 依子?!」
淡いピンクのブラウスを真っ赤に染めて、ショートカットの小柄な女性が、部屋の中央付近で俯せに倒れている。少し離れた机の前に、彼女が座っていたらしい椅子が転がっている。
彼女の顔は見えないが、ピクリとも動かない様子は、最悪の事態を連想させるに十分だ。
「剛志君、下がって!」
反射的に部屋の中に踏み込もうとした彼の肩を掴み、何とか抑える。
「大悟さんに連絡取ってください」
大悟は、メイ子の旦那だ。普段は2人とも港の家で生活しており、週に一度、島に渡って別荘の管理をしている。明日、剛則が別荘に来る予定なので、今夜は港に戻っていたのだ。
「あ……わ、分かった!」
顔色を無くした剛志は、ハッと衝かれたように廊下を駆け戻って行った。
「おぉい、何事だ?」
2つ離れた扉から、髭面の中年男、西條則雄が半身を覗かせている。ナイトガウンを羽織った彼は、恐らく就寝中だったのだろう。
「依子さんが」
答えて、僕は首を横に振った。察した彼は、サッと真顔になり、ガウンの前を合わせながら、大股で向かってきた。
「中には入らないでください」
「ああ、分かってる……」
緊張した面持ちは、僕の肩越しに室内を確認した途端、みるみる強張った。
「何だって、こんなこと」
心当りがある筈の彼は、他人事のように吐き捨てた。迷惑だと、はっきりと読み取れる冷たい声で――。
ー*ー*ー*ー
西條家は、地元のみならず地域――いや、近隣県外にも名の知れた一族だ。戦後復興の折り、先代会長が始めた建設業を基盤として成り上がった家族経営の企業で、現会長の西條剛蔵がグループ4社を率いている。会長の長男・剛則が「西條興産」を継ぎ、次男の則雄が「西條ハウジング」、長男の息子・剛志がインテリア雑貨の「SAIJYO」、そして剛志の姉の芙美子がエステサロン「ブリランテ」を経営している。
西條依子は、西條姓を名乗っているものの、剛則の血筋ではない。現会長の剛蔵が、囲っていた芸者・吉志乃の孫娘だ。吉志乃の死後、長らく西條家との縁は途絶えていたものの、依子の母が癌を患ったのを機に、娘を西條の家に認めさせたのだ。身寄りが無くなる娘を案じてのことではあったが――当の依子に取っては、幸せな決断だったとは思えない。
『先生、堕胎して貰えませんか』
西條家のホームドクターだった父の診療所に、思い詰めた様子の依子がやって来たのは、彼女が高校生の時だった。
『相手は――ボーイフレンドかね』
深夜の診療所に、独りで現れた依子は、涙を堪えた固い顔で俯き、ただ首を横に振った。
『守秘義務があるから、誰にも言わないよ』
小さな身体をビクリと震わせて、涙を溢す。彼女が口を開くまでに10分近く、父は辛抱強く待った。
『……則雄叔父さん、です』
『そうか』
何かしらの予感があったのか、父はあっさりと納得した。
その夜の内に手配すると、依子は父の車で診療所を後にした。
後日、彼女は学校を2日だけ休んだそうだ。理由は体調不良で処理された。
ー*ー*ー*ー
陶器の欠片に触れないよう、慎重に部屋に踏み入れる。
「先生、依子の死因は……」
廊下から、剛志が恐々と見ている。フローリングに広がった血液に気を付けながら、彼のデジカメで依子や室内を撮影していく。
警察が到着するまで現場を保存しなくてはならないのだが、その警察に連絡がつかない。いや、連絡出来ないのだ。
この屋敷は、西條家が所有する孤島に建つ別荘だ。内海の無人島を先代会長がまるごと購入し、島の中央の丘に立派な屋敷を構えた。世俗を離れてリフレッシュするため、と公言していたが、実態は奥方と世間の目を避け、女性達と逢瀬するために利用されてきた。
現会長・剛蔵が吉志乃を口説き落としたのも――則雄が依子を騙して手込めにしたのも、この屋敷だった。
「剛志君……依子さんが、床に何か書いています」
「えっ?」
部屋の入口側からでは分からなかったが、ぐるりと――依子が顔を向けている奥側に回ると、身体の影に隠れるようにして、彼女のメッセージが見えた。
「何を? 犯人の名前かい?」
「……いや。撮すから、見てください」
それから数枚、依子の写真を撮ると、僕達は階下に降りた。




