相合傘(前編)
気づけばすでに六時を回っており、外は暗くなり始めていた。
あれから一時間も経ったと言うべきか、まだ一時間しか経っていないと言うべきか……とにかく、濃密な一時間だった。天国と地獄をいっぺんに味わったとも言える。……地獄が先でよかった。
「もうこんな時間じゃねえか。やることやったし、あたしは帰るからな」
「うん、分かった。ばいばい真央ちゃん。また来週ね」
挨拶を軽く交わす二人。それを横から聞いていた僕は、鷺沢さんの言葉で今日が金曜日であることを思い出していた。
正直、平日も休日も変わらないっちゃ変わらないけど今週は別だ。土日を休養日に回せる。その二日間で腫れが治まってくれればいいんだけど。
「……って、おい。おまえらは帰んねえのか?」
保健室の戸に手をかけた仁科さんが、全く動く気配のなかった僕と鷺沢さんを見てそう言ってきた。
「わたしは先生と話があるからもうちょっとだけいるよ」
「ぼ、僕は今帰ろうとしてたところだよ」
本当はもう少し休んでいるつもりだったけど、鷺沢さんが残ると言ったから予定を急遽変更した。
いや、鷺沢さんと一緒が嫌なわけではない。むしろ嫌なわけがない。ただその……今の僕には同じ部屋に女子と二人きりというのはハードルが高すぎる。
仁科さんとのアレは別だ。再三言うが、あの時は頭の中がぼんやりしていたから何とかなっただけだ。正常な意識に戻った今、同じことができるかは怪しい。というか無理だろう。ただでさえギリギリだったのだから。
そうして僕はすぐさま立ち上がり、仁科さんに続いて保健室を立ち去ることにした。
「影山くんもまたね」
その際、鷺沢さんは僕の方をまっすぐ見て別れの挨拶をしてくれた。
「うん……また来週」
だけど僕は視線をずらし、つまらない返事しかできなかった。
……駄目だ、マイナスに捉えちゃ駄目だ。昨日までの自分なら上手く言葉が出なくて無言ということも有り得た。挨拶を返せただけでも大きな進歩じゃないか。
そんな情けないことを考えながら保健室を出た。鷺沢さんは最後まで僕の方を見てくれていた。
◆
玄関に着くと、本格的に雨が降り出していることに気づいた。保健室にいた時はパラつく程度だったが、僕がカバンを取りに教室へ戻っている間に雨足が強くなっていたらしい。
予報では降水確率20パーセントだったか……念のため傘を持って来てよかった。そう思いながら、傘立てから自分のを引き抜く。70センチの、わりと大きめの黒いコウモリ傘。中学時代からの愛刀である。
玄関を出ると同時に傘を開く。すると、再び仁科さんの姿を目にすることとなった。どうやら彼女は傘を持っておらず、軒下で立ち往生を食らっている様子だ。
どうしよう。どう声をかけるのが正解なのか。そもそも、声をかけたら図々しく思われないだろうか。仁科さんとの関係は保健室を出た時点で契約切れみたいなものだから……。
「……あー、あたし、傘持ってきてねえんだよなー」
すると仁科さんが小声でつぶやいた。まるで独り言のようにも聞こえるが、あれは遠回しに僕に対して言ってきているのだ。
先手を打たれた形になるが、これでこちらから声をかける必要はなくなった。しかし、それによってまた新たな選択肢が出現したとも言える。
と言っても今回の選択は至って簡単だ。目の前に用意された透明な手札の中から、僕は最善手と思しきものに迷いなく手を伸ばす。
「僕ので悪いけど、この傘使っていいから」
そう言って僕は傘を足元に置き、降りしきる雨の中へと飛び込んでいった。少しくらい濡れても平気だ。
「――ちょっ、おまっ、何やってんだ?」
「……?」
どういうことか仁科さんが僕を呼び止める。もしかして選択ミスだったか?
これで仁科さんは濡れずに帰れるというのに、何がいけなかったというのか。やっぱり、黒いコウモリ傘は不満だったのか……。
「怪我人のくせに風邪までひいたらどうすんだよ」
仁科さんはそう言いながら僕の傘を持って駆けつけてきた。生地の面積だけは広いおかげで二人ともすっぽりと収まる。確かにこれなら僕も濡れずに済む……。
……と、無理やりアレを意識しないようにしてみたが、無理だった。というか無理に決まっているじゃないか。
一つの傘に男女二人。これが相合傘を意味することは、いくらなんでも分かる。
「ちょ、ちょっと待って」
だから僕は思わず三歩ほど退いてしまった。
「待てって何がだよ」
それに呼応して仁科さんも三歩前進する。
「その……心の準備とか」
「は? 何わけわかんねえこと言ってやがる」
仁科さんは僕を濡れさせないようにと配慮してくれているのだ。その厚意を無下にすることはできない。逃げ場も……ない。観念してお縄につけということか。
何枚かある手札の中から、最も有り得ないものを切ることになるとは……まあ、切ったのは僕でも仁科さんでもなく、成り行きでそうなった感じだけど。