モノワスレ
朧気な視界に映るのは黄昏色に染まる校庭――。
踊る影法師――。
郵便屋さん、お入んなさい。
いちまい……にいまい……さんまい……よんまい……。
どこかで子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる――。
* * *
私は酷い頭痛と吐き気に襲われながら目を覚ました。
と、いってもあたりは真っ暗で、此処がどこかも分からない。
埃とカビが入り混じった臭いのせいで、かろうじて室内だと分かる程度だ。
〈だいぶ飲みすぎたか……?〉
汗でぐっしょりと濡れたシャツには酒と煙草が混じった甘苦い匂いが染み付いており、胸がムカムカする。
ツバを飲み込むたびに喉につっかえ、胃の中身が今にもせり上がってきそうだ。
しかしいくら記憶を辿ってみても、意識を失う前の事がまるで思い出せなかった。
〈確か……小学校の同窓会に参加した所までは覚えているんだけど……〉
見違えたようで中身は全く変わっていない悪友たち――。
頭に白いものが混じりすっかり丸くなった担任の先生――。
当時、密かに想いを寄せていた女の子は二児の母親になっていた。
〈ここは居酒屋の物置部屋か何かか……?〉
酔いつぶれた私を店員か誰かが気を利かせて運んでくれたのかもしれない。
〈いったいみんなはどこだ……?〉
だが思い出そうとすればするほど、頭に鈍い痛みが走る。まるで記憶ごと頭蓋の内側をノミで削られているみたいだ。
おもわず後頭部に手を伸ばした瞬間、違和感を覚えてすぐに手を引っ込めてしまった。
〈濡れてる……!?〉
汗では無い……。
もっと粘つく、何か……。
不意にカビの匂いに混じって鉄の錆びたような匂いが鼻をついた。
もう一度、今度は恐る恐る手を頭の後ろにやる……。
「おい! な、なんだよっ……これ!?」
おもわず出した声が狭い部屋に反響していやに大きく響いた。
左耳の後ろ、ちょうど首と頭蓋骨を繋いでいるあたりがまるで腐りかけのプラムのように歪に腫れ上がっていたのだ。
「――痛っ!」
指先が触れた瞬間、ズキンと神経を直接引っ張られたかのような痛みが走る。
まだ出血しているらしく、指にも髪の毛にベッタリと血がこびりついている。
いったい何故、いつ、こんな怪我をしてしまったか、全く思い出せなかった。
いや、もしかしたら怪我をしたことで記憶を失くしてしまったのではないだろうか?
一瞬、頭をよぎった不安が、ズンと胃の中に重く冷たく沈み込んだ。
〈これ、ヤバい出血とかじゃないよな……?〉
怪我の場所が場所だけに不安は拭えない。
私は上半身だけ起こしたままの体勢で、意味もなく手足を動かしてみた。
「ほっ……」
我知らず、安堵の溜息が出る。
どうやら今のところ痺れたり、感覚が麻痺しているようなことは無いようだ。
手の平を通してささくれ立ったい草のチクチクとした感触が伝わってくる。
どうやら自分は和室に居るらしい。
徐々に暗闇に慣れてきた視界にぼんやりとだが、六畳一間にも満たない狭い和室が浮かび上がった。
〈とにかく、救急車を呼んで病院に行かないと……!〉
反射的にズボンの右ポケットに手を突っ込んだ瞬間、新たな不安と焦燥に胸元が締め付けられたような気がした。
「無い……! 無いぞ……!?」
別なポケットも探してみたが、入っていたものといえば二つ折りになった封筒くらいで、スマホはおろか財布すら見当たらない。
私は慌てて近くの畳の上を手探りで調べる。
堆積した塵や埃の拭い難い不快感に耐え、虫の死骸に怖気を覚えながら、背中の方まで手を伸ばすと指先が何か固い物に当たった。
子供の腕ぐらいの太さだろうか……?
円筒形で、表面がザラザラしている。
そのまま右手で表面をなぞっていくと、一方の先端が一回り大きく膨らんでいるのが分かった。
「……あ! これ、懐中電灯じゃないか!?」
痛みと混乱で半ば恐慌状態だった私はすがるようにそれを握った。
――ヌルっ!
予想外の感触に、おもわず懐中電灯を取り落としそうになった。
〈血だ……血が付いてる!?〉
暗くてよく見えないが、懐中電灯の先の方にベットリとした何かがこびり付いていて、かすかに鉄が錆びたような匂いがする。
〈いったいに何がどうなってるんだ……!?〉
自分は何かの事件に巻き込まれたんだろうか?
見知らぬ部屋で目が覚めたかと思えば、頭に大きな怪我をしていて、財布も携帯電話も、記憶すら無いなんて……。
そんな不安がじっとりと汗を含んだシャツに広がり、総毛立った。
「とにかく、こんな場所、さっさと出よう!」
自分を奮い立たせるように大きな声を出して、懐中電灯のスイッチを押す。
しかし線香のような淡いが灯ったかとすぐに消えてしまった。
電池が残り少ないのか、はたまた接触が悪いのか……。
何度もスイッチを切り替えてみたり、振ったり、軽く叩いてみたりしながら悪戦苦闘していると、突然、まばゆい光が目を焼き、私はおもわず懐中電灯を前に向けた。
「わぁあ――っ!!」
私は年甲斐もなく悲鳴をあげて、座ったまま畳の上をあとずさった。
見えたのは懐中電灯の光が闇を照らした一瞬だけ……。
しかし私は確かにソレを見た。
真っ暗な闇の中、丸く切り取られた薄明かりの中に白い人影がぼんやりと宙に浮いていたのが、はっきりと目に焼き付いている。
〈アレはいったいなんだ……?〉
分からない……。
怖い………。
……。
でも、確かめたい……。
ズキズキと傷で痛む頭の中で相反する感情が渦巻き、心臓が早鐘のように脈打つ。まるで喉の奥から心臓そのものがせり上がってきているような圧迫感に耐えかね、私は意を決して床に転がった懐中電灯を拾い上げた。
舞い上がる埃に咳き込みながら、ゆっくりとスイッチを入れる。
今度はすぐに明かり灯り、白熱電球の淡い光に照らされてまるで羽虫の群れが逃げるかのように埃が舞う。
やはりここはしばらく使われていない物置部屋のようで、畳の上には無数の足跡や布団の山、横倒しになった脚立などが雑然と置かれているのが見えた。
そのまま徐々に懐中電灯を足元から上へと向けていく。
「――っ!」
喉元までせり上がってきた心臓を私は必死の思いで呑みこんだ。
〈居るっ……!〉
先ほど見たのと全く同じ白い人影が目の前に居る。足は無く、白い上半身だけが私を見下ろすようにぼんやりと暗闇の中に浮かんでいた。
やはり見てしまったことを後悔して、すぐに懐中電灯の光を人影から逸らそうとした。しかし頭の片隅で何かが引っかかり、もう一度光を当てる。
「待って……あれって……セーターじゃないか?」
よく見ると、その白い徳利のようなシルエットには見覚えがある。
あれは自分のだ。今朝おろしたばかりの白いタートルネックのセーターじゃないか。
おおかた、酒が入って暑くなり、脱いでしまったものを店員か誰かがハンガーに掛けておいてくれたのだろう。
それを幽霊と見間違えるなんて、我ながらなんて情けない。
緊張が一気に緩んだせいか、それまで肺の中に溜まっていた空気が一気に吐き出される。
まだ胸のつかえと頭の痛みは残っているものの、だいぶ気分は落ち着いてきた。
「『幽霊の正体見たり枯れ尾花』ってか……」
私は勢いよく立ち上がると無造作にセーターを引っ張った。
「あれ……?」
〈これ、ハンガーじゃないな……〉
セーターが引っかかっていたのは細いビニール製のロープのようなもので、小学校の頃に遊んだ縄跳びの縄にも似ている。
セーターを取ったことで捻れていたそれが解け、大きな輪っかになる。ロープの端はというと、天井の太い梁に括り付けられていて、丁度目線よりやや高い位置に輪の下端がくるように垂れ下がっていた。
ゆらゆら……。
ゆらゆらゆらゆら……。
まるで誰かが入ってくるのを待っているかのように一定のリズムで揺れ続けている。
ポケットにしまってあった二つ折りの封筒……。
ゆらゆら……。
横倒しになった脚立……。
ゆらゆらゆら……。
天井からぶらさがった縄跳び……。
ゆらゆらゆらゆらゆらゆら……。
「いったい、この部屋で何があったんだ……?」
私は痣になった首筋を押さえながら、揺れる縄跳びをジッと見つめていた。
郵便屋さん、お入んなさい――。