幽霊少女の遺した言葉
※この作品は、ホラーではありません。
僕は、大学時代、行く当てもない旅を続けていました。
ある日、僕は、岐阜の、高い山に囲い込まれたところにある、たいそう古びた旅館にたどり着いたのでした。もちろん、予約などは一切していません。そういう自由な旅ですから。それで、今にも壊れそうな引き戸をぎいと開けて、屋内に声をかけると、腰の曲がった老婆が、のそのそと廊下を歩いて来て、
「お泊まりですか?」
と、尋ねてきました。
「はい」
「それでは、ですね。こちらにお名前をお書きしてください……」
と老婆は答え、震える手で、机の引き出しから宿帳を出しました。が、すぐに宿帳を床に落とし、また拾っては落としました。それが、あまりにも奇怪な様子だったので、僕は慌てて、靴を脱いで、床の宿帳を拾い上げ、
「大丈夫です。僕がやります」
と言いました。僕は、老婆の返事も聞かずに、宿帳を音を立てて床に広げ、持っていたペンでするすると自分の名前を書いたのでした。
その名前は「柿本正人」。
老婆は、それを見つめて、満足げに頷くと、宿帳を拾って、今度は落としたりせずに、机にしまいました。僕はちょっと不自然に思いましたが、あまり、細かいことは考えても仕方がありません。
「お兄さん、お泊りになるのは、この上の部屋でもいいですかねぇ。他に使える部屋がないんですよ。とても急な階段をのぼった上にあるのですが……大丈夫、地震が来ても、この宿は倒れませんから……そんなに心配することはありません」
と老婆は、かえって心配になるようなことを述べてから、
「それよりも、心配なのはその部屋に、出るんですよ」
と言いました。
僕は耳を疑いました。
「出る? 何が出るんです」
「例のものがさ……へへへ……」
僕はなんとも嫌な予感がしました。それでも、老婆は、他の部屋には変えてくれそうもありません。仕方なく、僕はその急な階段をのぼって、二階の廊下に上がりました。そして、目の前に並んだ、うす汚れた引き戸を横に開いたのです。
何か、嫌なものがいなければいいが……そう思った瞬間、薄暗い室内に人影らしきものを見て、どきりと心臓が高鳴りました。
「あっ……」
僕は声を上げました。
「ひゃっ」
可愛い声が聞こえました。それは八畳ほどの和室だったのですが、真ん中に炬燵が置かれていました。そこに、黒髪のショートカット、というか、おかっぱ頭のあどけない女の子が座っていたのです。そして、大きくて綺麗な瞳をこちらにむけていました。それはそれは、とても可愛らしい女の子なのでした。
「なんだ、君は……」
「そういうあなたは、誰……?」
「この部屋の客です」
「まあっ」
女の子は、その言葉を聞いて、慌てた様子で立ち上がりました。和服でした。それで、女の子は、膝の埃をぱっぱっと払って、こちらに近寄ってきました。そして、会釈をしながら、僕の手持ち鞄をぐいと奪うと、あろうことか、床の間に放り投げました。
「ようこそ、どうぞ、そこらへんにお座りください」
「あ、うん……」
僕は、訳もわからずに畳の上にしゃがみこむと、やはり女の子は、炬燵の方へのそのそと戻っていきました。
「あのさ、君は一体、誰なんだ?」
「私ですか、ううん、誰でしょう、私。生前の名前はよく分かりません。今は、舞菜ちゃんと言われてます」
「生前の名前? すると、君はおばあさんが言っていた……」
「うん……」
舞菜は、僕の方を向いて、悲しげな微笑みを浮かべて、
「幽霊ですよ……」
と言いました。
「幽霊なの? 全然、怖くない幽霊だね」
僕は、可笑しくなって言いました。
「うん。でも、幽霊の舞菜です。よろしくお願いします」
僕は、この幽霊の女の子が気に入りました。あまりにも可愛らしく思ったので、それからしばらくの間、僕はこの旅館に滞在することにしました。
なぜ、この子は死んでしまったのかも、僕はよく知りません。ただ、おばあさんによれば、どうも昔、この旅館で自殺をした女の子らしいのです。
幽霊などというから怖れていましたが、すぐに慣れてしまうものです。こうして、自分の寝泊まりする部屋に、可愛らしい女の子がちょこんと座っているのは、なんだか、とても楽しいものです。
だいたい、幽霊などというものは昼間はどこかに隠れてしまうものらしく、舞菜ちゃんの姿は見えません。夜になって、ふと掛け軸の方を見ると、床の間の上に、舞菜が、色白な顔をこちらに向けて、体育座りしている時があります。
「脅かすなよ……」
と舞菜ちゃんに言いますと、
「びっくりしましたか?」
と本人は、まったくわかっていないところがまた可愛らしく思いました。
さても、この舞菜ちゃんとの生活が楽しくなってくると、余計なことまで考えてしまうのが人間の愚かさです。例えば、その和服からたまに覗かせる、小ぶりながらも、白くてふっくらとした谷間など、突きたてのお餅のようで、ちょっと悩殺的なのでした。
「今、変なことを考えたでしょう?」
と舞菜はすぐに気づいて、少し怒った様子で言うので、僕は誤魔化そうとして、話をはぐらかしました。
「いや、埃がのっていたからさ……」
それでも、舞菜はちょっと、にっと笑うと、からかうように、
「幽霊に対して、そういうこと考える人は変人ですよ……」
と言いました。
「まあまあ……」
僕は、上手いこと舞菜をなだめましたが、かえって舞菜の方はこれで味をしめたのか、僕がその夜、浴室に入って、髪を洗っていると、鏡の中に何か白いものが映っています。それが舞菜だったので、驚いて声をあげました。本人は、エロティックな悪戯のつもりだったのかもしれませんが、やはり、鏡の中の幽霊は幽霊にすぎません。僕は面白おかしく思って、笑いました。
その夜、僕が布団に入ると、もぞもぞと舞菜が布団にもぐりこんできます。僕は、それがとても可愛らしく思いました。けれども、実際には、幽霊が布団にもぐりこんできたのです。
「それね、お客さんにやっちゃ駄目なやつだよ、君は幽霊なんだから……」
「そうかな?」
舞菜は、あまり幽霊という言葉にコンプレックスを抱いていないようでした。
「幽霊だから嫌い?」
「ううん。そんなことはないよ」
「どうして?」
「だって、君は良い子だ」
「そうかな。でも、私、幽霊だよ?」
「構わないよ……」
「じゃあ、私のことを本当に大切にしてくれる?」
「うん。大切にするよ」
僕はそんなことを言って、この舞菜を抱きしめました。それで、やっぱり、肌は冷たいんだなぁ、と思いました。そして、翌日、僕はこの旅館を離れたのです……。
僕は旅行から帰ってから、この可愛らしい幽霊のことはすっかり忘れていました。大学を出た僕は、ある会社に勤めて、そこで一人の女性に出会いました。その女性は、大変、心の優しい人でした。何回かプライベートで会っているうち、お互いに惹かれあって、ついに僕はその女性と結婚することになりました。
結婚式が近づいているある日の晩、僕の婚約者から電話がかかってきました。
「ねえ、あなた、すぐに来て……なにかが、部屋にいる気配がするの、声がするの、それが何かは分からないけど、とても怖いの。あなた、すぐに私の住むマンションまで来て……」
「なんだって、声がする? 気のせいだろう」
「お。お願い、気味が悪いの。それに、あなたの名前が聞こえてくるの……」
僕は驚いて、すぐさま、彼女の住むマンションに駆けつけました。そして、玄関のドアを開けて、彼女に会いました。
「大丈夫?」
「よ、良かった。ね、ねえ、そこから、声がするの……」
僕が、その部屋の奥を見つめると、薄暗い部屋の角あたりから、か細い、恨めしげな人の声が聞こえてきます。
……ワタシノ……マサヒトヲトラナイデ……ドウシテ……ワタシノマサヒトヲトロウトスルノ……
その悲しげな声を聞いて、僕はあの舞菜のことを思い出しました。
「……もしかして、舞菜か?」
その声は、そこで、ピタリと止まりました。そして、その部屋の角に、青ざめた顔の少女がすうっと現れました。その髪は、くしゃくしゃに乱れ、顔色は、土のようになり、目は瞳孔が開いていて、なんとも、苦しみに歪んだもの凄い顔をしていました。
……マサヒト……ワタシヲタイセツニスルッテ……イッタデショ……
僕は、おそろしいものを見て、ぞおっとして震え上がり、
「消えろ、化け物……」
と叫びました。舞菜は、その言葉を聞いて、涙をひと雫落とすと、
……アナタヲ……シンジテイタノニ……
と言葉を残して、そのまま、窓の外にふっと消えてゆきました。
それからというもの、僕の前にその幽霊が現れたことは一度もありません。僕は、とても幸せな結婚をしました。子供も生まれ、平和な家庭を持つことも出来ました。それでも、僕の心の中に空虚が一点があるような気がしています。僕は、どこかで過ちを犯したようだけど、それが何か、はっきりと分からないまま、時は過ぎてゆくようでありました……。