闇の患者:第1話
中田笑子はその日の学業を終えるとまっすぐ家に帰った。その日は体育の時間に持続走があり、走りなれていない運動不足の彼女は疲れ切っていた。とにかく家に帰ってお風呂に入って、ゆっくりしたい。そんな気持ちでいっぱいだった。
家に帰ると、洗面所で手を洗い、鏡の中の自分を見た。入学した頃の長かった黒髪は、ボブカットの茶色に染めた。かつてかけていた眼鏡も、コンタクトに変えた。そんな自分の姿にはまだ、違和感を感じることもあったが、それでいいのだという意志がある。
中学生の頃はおしゃれに興味は持たなかったが、高校に入ると、中学以来の友達と離れ、新しい学友たちは皆、おしゃれに力を入れていた。このままだと、仲間外れになるという強迫観念が、彼女の意識を変えた。できるだけ周りの女子のおしゃれに合わせ、放課後の遊びも付き合った。おかげで仲間外れになるということはないが、消費する金額は中学生とは比べ物にならない。故にバイトも始めたのだ。中学生の頃より疲れも溜まるようになった。
空腹を感じた笑子は、台所で食パンをトースターで焼き、バターを塗って食べ始めた。携帯端末機が震えた。マナーモードを解除していなかったゆえに着信音がならなかった。
それは、高校でできた友達からのメッセージだ。
『今日もお疲れ笑子ちゃん、かけっこ疲れたね』
うん、そうだねと返信した。
『今は真鍋ちゃんとファミレスで食事中。クラスの男子の事を愚痴ってます』
笑子は少し笑った。高校の男子たちもなかなかの捻くれ者が揃っていた。故に友達とは理想的な男子がいないことを大げさに悲観していた。
再びメッセージが来た。だがそれは友人ではなく親からだ。
『今日は帰りが遅くなりますので、お弁当を頼んでおいてください』
このメッセージに少し喜びを感じた。最近の親との会話は学校での成績や将来に関することばかりであり、話せば話す程、ストレスを感じた。故に仕事で親が遅れることは、それだけ家で自由にいられるということであり、喜ばしい。
昔は、ここまで親を邪険に思ったことはなかったのに。ふと、そう感じることはある。だが、そんな思いもやはり、親がすぐに進路に関する会話をしようとするため、すぐにストレスを感じ、失せる。
彼女は出前を頼まなくてはと思ったが、面倒に感じて後回しにした。
友達からのメッセージが来る。
『明日、おいしいラーメンのお店あるけどいかない?』
友達とはラーメン巡りが些細なブームになった。ラーメンが好きになったのも、やはり高校生になってからだ。何回か食べると、ふと無性に食べたくなることが多い。
台所の電気が消えた。
だが、それも一瞬の事だった。
すぐに電気がつく。
電球の変え時かな。やだな、面倒だな。そう心の中で思った。食パンを食べ終えると、リビングに入り、テレビをつけた。リモコンでチャンネルを変え続け、流行りのアニメを見ることにした。
『笑子ちゃん、見てる』
見てる。
『これ面白いよね』
そうだね。
『再来週、トークショーがあるんだけど、一緒に行かない?』
うん、行こう。そう返事しようとした。
だが、メッセージが送信できなかった。
見れば圏外になっていた。
なんで。
再起動を行ったり、機内モードに切り替えて戻したり、SIMカードを入れなおしたりしたが、電波が繋がることはなかった。
明日、携帯会社に行かないといけないかな。面倒だと思いつつ、部屋に戻って着替えをしようと思った。
笑子の部屋の中心に何かがいた。
身長は170cmにも満たない猫背の男性で、髪の毛は乱れ、口には呼吸器がついていた。汚れた患者用の服を着込み、細い手足の爪は伸び曲がっている。
笑子は固まった。
声を出すことができず、身動きも取れない。
頭の中で今の状況を理解しようとしたが、考えれば考えるほど、混乱を招くだけだった。時間が止まったのではないかという静寂な空間となった。
しばらくして笑子が出した結論は、家から出るというものだった。
慎重に後ろに下がりながら、目を離さなかった。一刻も早くその異常者から離れたいが、視界から消えると危険だと本能で理解していた。
後退しながら廊下の出たころ、その異常者の呼吸音が早まるのに気づいた。そして異常者はゆっくりと手を上げる。
両手には何か握られていた。
見ればそれは、シーツで作られた縄だった。
急に首に何かが巻き付いた。それは何処からともなく現れたシーツの縄だ。縄は意志があるように笑子の首に巻き付き、締め上げていた。
指を必死に食い込ませようとしたが、シーツの縄は容赦なく締め続ける。縄は天井から伸びていた。天井を見上げて必死に呼吸をする。天井はまるで闇が続いているかのように暗かった。縄は笑子を持ち上げていく。やがてつま先だけが床についている状況となった。
その間にも変質者は笑子に近づいた。
笑子の目から涙が溢れ、口からは涎が垂れる。
異常者は笑子の頬に触れた。
笑子の意識はそこで失った。