堺
大徳寺にしばらく逗留したのち、与四郎さんと舟で鴨川を下った。時折冷たい時雨が頭を垂れた稲穂を濡らした。虫でも狙っているのだろうか、鋭い百舌鳥の声が遠くから聞こえた。鴨川は桂川に合流し、宇治川に出る。京で宇治川と呼ばれるこの川は、大阪では淀川と呼ばれる。その先は、視界が開けて広々とした大阪平野となる。大阪平野には、いくつもの川が縦横無尽に流れており、中でも淀川は平安時代からの瀬戸内海や西国と京を結ぶ重要な交通路だった。その流域には、いたるところに上流から流れてきた土砂が溜まってできた浅瀬があり、舟の運行の妨げになっていた。ときどき川底に溜まっている土砂をさらってるんですわ、と船頭さんが教えてくれた。
その淀川をさらに下って行くと大阪湾である。背中に遠く時雨に霞んだ生駒山が見えた。いつの間にか磯の香りのする潮風に吹かれていて、舟は海の上を進んでいた。しばらくすると堺の港に着いた。港には、漁船ばかりではなく瀬戸内海を行き来する商人の舟も数多く停泊していた。港から上がって陸に上がると京とは比較にならないほど活気に満ち溢れている。港の周りにびっしりと並ぶ酒蔵と土倉が目に入った。堺は包丁の町であり、茶道の町であり、和菓子の町であり、鮮魚の町である。交易がもたらす多様な文化の溶鉱炉と言っていい。その活気の中で、かつての刀鍛冶が、鉄砲鍛冶へと変貌を遂げつつある。
通りに沿って歩いて行くと、両脇に豪商の大きな屋敷が建ち並んでいた。港からほどないところに与四郎さんの屋敷があった。黒い瓦屋根のついた杉の塀に囲まれた立派な屋敷だった。何でも与四郎さんの親父さんは塩魚座と納屋衆を営む豪商だったらしい。魚問屋らしく、船を漁師に貸したりもしていたということだ。新九郎さんに伊勢海老を京に売ったらどうだ、と言って、腐ってまうわ、と笑われたことを思い出した。
「魚じゃあ、途中で腐ってしまうから京に売れんじゃろね?」
「塩漬けにするんですわ」
なるほど、海に近く、赤穂から塩を入手できるから、そんなことができるのだろう。塩は貴重だから、淡水の琵琶湖の近くではそうはいかない。新九郎さんから坂本の町で振る舞われた鮒寿司をここでも思い出した。
「それに魚絞った油なら京に持って行けます」
なるほど、灯りの油にしてしまえば、保存も効くし、使ってしまえば、なくなる。商品になる。しかし新九郎さんは荏胡麻油を売っていたはずだ。
「荏胡麻油は高いんですわ、それに魚なら一年中獲れますやろ?」
それでは新九郎さんの荏胡麻油が売れなくなってしまうではないか。
「残念ながら魚から取った油は燃やすと臭いんですわ」
臭くても安い油が欲しい人と、高くても臭くない油が欲しい人とを、それぞれ客として住み分けしているっていうことか。これが商人のやり方なのか、と感心した。
「もっとも今油の臭みをとる研究してるとこですけどな」
比叡山延暦寺の生臭坊主の不老不死の薬の研究よりよほど現実味がある。安く良いものを研究開発して競争するというのはこういうことか。自由に商売をする。工夫したものが安く売れれば、工夫した方も報われるし、買った方も幸せになる。この自由なやり方こそ万民が求めている仕組みだ。新九郎さんが言っていた「楽市楽座」の根本がここにもあった。
「お商売の話はこれくらいにして幸若舞でも見に行きまへんか?」
幸若舞は語りを伴う曲舞で、流行っていると話に聞いたことはあったが、見たことはなかった。芝居小屋に入ると、平家物語に出てくる一ノ谷の戦いの平敦盛を語った「敦盛」が演じられていた。三人の舞手が、素襖、長袴、手には扇、といったいでたちで舞台に立っていた。太夫は立烏帽子、他の二人は折烏帽子をかぶり、小鼓ひとつだけの伴奏で、軽妙に舞いながら謡う。
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」
はまった。敦盛が本当にこう言ったかどうかは別として、これほど達観した表現があるだろうか。星々が天にずっとまたたいていた時間に比べて、人の世の五十年なんてちっぽけなものだ。ましてひとりの人の生き死には夢幻と言ってもいいだろう。儚いからこそ人の一生は尊く美しい。桃さんと黒谷青龍寺で見上げた星空を思い出した。比叡山延暦寺で不老不死の薬を研究していた生臭坊主どもに聞かせてやりたい。この一節が、もう脳裏に焼き付いて離れない。何度も繰り返し繰り返し口ずさんだ。
この時代、地球が出来てから46億年であることも、宇宙が出来てから138億年であることも、誰も知らない。ましてダーウィンの進化論も知られてなければ、ホモサピエンスが出現したのが20万年前であることも知られていない。仮に「下天のうち」を138億年とすれば、「人間50年」はわずか4ppbに過ぎず、夢幻とは言い得て妙である。もちろんこの時代に、こんな議論は、出来ようはずもない。
「偉く気に入ったようでんな」
与四郎さんの声で我に帰った。気づけば幸若舞を見終えた芝居小屋の観客が口々に感想を述べあったりしながら、ごそごそと帰り支度をしている。打ち寄せる穏やかな波を横目に波止場を歩いて帰途についた。
晩には穴子の塩漬けをご馳走になった。お粥は木の碗ではなく、焼き物の碗によそってあった。聞けば、木の碗で茶を喫したあとにつく茶渋を拭き落とそうとすると漆に傷がついて碗が使い物にならなくなるのだそうだ。その点、釉をかけた焼き物は、素焼きと違って水を通さず、すべすべで拭き取っても傷がつかない。水は貴重なので、滅多なことで流水で食器を洗うことはしない。だからお粥を食べたあとにくっついた糊を拭き取るのにも釉をかけた焼き物の碗の方が都合がいいのだと言う。釉をつかった焼き物を焼くには、温度の高い窯が必要だ。茶碗の取引の際には、釉のかかり具合や焼き加減など十分に吟味し、目利きしてから商うのだと言う。高価な茶碗は、土倉に蓄えることのできる通貨になり得るのだと、気が付いた。