黒谷青龍寺
東塔からから比叡山の尾根道を西塔の方へ向かう。いっときほど歩いて、右手眼下に広がる琵琶湖が見える峰道と言うところで弁当を使った。その小高い丘の崖の脇から左に折れて山道を黒谷ヘと下る。鬱蒼と生い茂る杉の巨木の森をしばらく下ると黒谷青龍寺と看板を掲げた山門に突き当たる。
道々、新九郎さんが延暦寺と青龍寺の由緒を話してくれた。その昔、隆盛を極めた奈良の都に没落の影が忍び寄ったとき、無知蒙昧な僧が権力を持ち、大きな大仏を作ることを為政者に提案した。その結果、奈良の経済は立ち行かなくなり、遷都を余儀なくされた。若き新進気鋭の最澄は、この比叡山に、日本の風土に沿った形で本来の学問のための新たな場所を開いた。それが延暦寺である。その延暦寺も、時代が下って鎌倉の世が乱れるとまた腐敗が始まった。人々の不安につけこみ、お金のあるところへお札を売りつけた。その頃、延暦寺に学んでいた法然は、お金のない人が救われないのは本来の学問の姿ではないと、出世や名誉と決別し、庶民と生活を共有し、有志とともに本来の学問の在り方を模索した。その地が、ここ黒谷だ。そんな由来で、ここは、古くより出世や名誉と決別した隠遁者の住居となっていた。
風が違う。空気が違う。人が違う。本気で道を究めようとする若い学僧の熱意が感じられた。比叡山の腐敗を本気で憂える年配の僧の優しさが感じられた。ここの学僧の学識は凄まじかった。どんな問にもすぐに答えた。それでいて彼らの顔は、柔和で穏やかで嫋やかだった。学問は一部の特権階級の占有物ではなく、万人に役立てるのだという意識がそうさせていた。たとえ大勢の衆徒からの寄進がなくても、たった一人の信者のために、全身全霊でその持てる学問を役立てるという気概に満ちていた。
そのうち一人の若い学僧が、
「暦の作り方を知っていますか?」
と聞いた。考えたこともなかった。桃さんも黙って聞いている。当たり前に使っていた暦だが、自然には生えて来ない。誰かが作っていたのだ。気づかなかった。いや、気づけなかった。人に教えを乞うということは、一方的に押し付けられる思いを受け止めることではなく、新たな気づきをもらうことなのだと悟った。
「暦は、太陽や月や星の動きを計算し、それをもとに作ります」
と若い学僧は続けた。
一年は365日より少し長いのだという。ひと月も29日より少し長いのだと言う。さらに365は29で割り切れない。これらの長さの端数や、割り切れないあまりを調整するのに閏日や閏月を使って暦を作る。暦作りには、太陽や月や星の位置を正確に測る天文道とそれをもとに暦を決める暦道の学問が必要だ。これらの学問は遣唐使によって日本にもたらされて、朝廷の陰陽道の宗家が独占して伝承していた。宗家とは天文道を伝える安倍氏と、暦道を伝えるのが賀茂氏である。しかし朝廷の力が弱くなると、陰陽寮秘伝の暦の算出法に関する書物は、民間に流布するようになり、もはや暦の算出に関しては民間の方が優れた学者がいるのだと言う。桃さんと見た法華総持院東塔にずらりと並んだ書物を思い出した。書物に込められた叡智を使うのはやはり人次第なのだ。
そして暦も権力なのだ、と気がついた。夜空に光り輝く星々や、太陽や月の運行は、権力と無縁に見えたが、実は違った。正月も催事も暦に基づいている。人はみな暦に従っているではないか。暦こそ最高権力と言っていいかもしれない。もし暦が各地で違ったらこれほど不便なことはない。日時に基づいた約束もできないし、みんな揃って正月を祝うこともできない。
「悲しいことに今はそうなっています」
若い学僧は、俯いてさらに続けた。
「世が乱れたために、諸国が勝手に暦を作っているからです」
誰かが、統一するべきだ、と痛感した。そう「天下統一」だ。ひとつの暦を決めるは、ひとりの人間だ。天下一、でなくてはならない。この若い学僧こそ、暦作りの天下一になるべきだ。それを防げる上の者の無知・無策がいかに罪悪か。この若い学僧たちに延暦寺の未来を背負ってほしいと思った。それには、やはり延暦寺の生臭坊主どもは焼き払わねばならないだろう。いつかそんな日が来ることをぼんやりと予感した。
その夜は黒谷青龍寺に宿を借りることにした。日が落ちてから、桃さんと峰道まで戻って空を見上げた。満天の星空だった。千年後の時代も、同じように星座が巡っているのだろうか。茂みから聞こえる秋の虫の声が賑やかだった。すっと星が流れた。桃さんが、いずれは俺たちの時代が来るんだな、とぽつりと言った。
比叡山延暦寺は山全体がお寺です。回峰行とまではいかなくても奥比叡ドライブウェイを使えば車でそこそこ訪ねることができます。しかし法然が名利を求めず遁世の修行をしたという黒谷青龍寺は、奥比叡ドライブウェイの峰道レストランから徒歩で訪ねるしかありません。山峰道レストラン・展望台から見下ろす琵琶湖や近江富士は絶景です。