蕎麦の味の妙
細く切られた、茹でたての蕎麦を、椀のつけ汁につけてすする。
美味い。
このあたりは、山が深く、稲作に適さない。そこで朝倉孝景が、蕎麦づくりを奨励したのだと言う。茶と同じに石臼で挽けば、蕎麦粉になる。蕎麦粉をこねて蒸せば、蕎麦餅になる。でも、それは、ぼそぼそしていて、腹の足しにはなっても、美味いという代物ではなかった。
この蕎麦は、茶釜で茹でてあった。茶釜にそんな使い道があったとは。蕎麦を蒸さずに茹でるには、麺を細くして、素早く火を通す必要がある。素麺なら手延べすればいい。しかし蕎麦は、手延べできないので、細く切るには、包丁を使うしかない。美濃の刃物の里の関で、うどん用とは違う、新型の包丁の注文があるというから、何に使うのかを見に来たら、こねて伸ばした蕎麦を、細く切るのに使っていたのだ。
蕎麦を細く切るには、もうひとつ工夫があった。蕎麦粉に、つなぎとしてとろろ芋を混ぜることだ。
蕎麦のつけ汁のおおもとは、大豆に麹で発酵させたときのものできる汁だ。醤油と呼ぶらしい。それに越前で取れた鯖と、越前で荷揚げされた昆布を出汁にして、つけ汁に仕立ててある。
そういったことを工夫するのは、浄土真宗の信徒が多い。これだけ山深いところでは、大きな寺に参詣するのが大変だ。在家の浄土真宗は、山間の農民でも入信しやすいのだ。自宅に仏壇を作り、生活の工夫をする。その里の人々といっしょに生活しながら、坊主が住んでいるのが庵だ。
板敷の床に座ると、蔀戸から、裏山に続く、小さな庭が見える。手水鉢から零れ落ちる水が、水琴窟に、心地よい音を響かせる。
俺は、その庵で蕎麦を食っている。また、一口すする。大名の悪食より、細民の美食とは、まさに言い得て妙だ。絶妙な味わいと言っていい。
絶妙、微妙の妙。妙を覚えると書いて妙覚。妙覚とは、深遠な悟りを言う。
その妙覚を冠した京の妙覚寺での出来事を思い出した。その妙覚寺で、日乗らとフロイスらの宗論が行われた。いわば学問の他流試合だ。俺にしてみれば、遊びで、日乗とフロイスを会わせるつもりだったが、炎上して宗論いうことになってしまった。
日乗は、目に見えない魂は、存在しないと言い、激高して、フロイスらに詰め寄った。とても深遠な悟りを得たとは、言い難い。しかも、妙覚寺、である。寺院を立派につくり、学問もせず、生計を営むだけで、肝心の妙の一義をもわきまえぬとは、困ったものだ。それでは、そばの絶妙な味わいも、鉄砲の巧妙なからくりも、火薬の精妙な配合も、悟りの境地へは程遠い。
風は目に見えないが、確かに存在している。目に見えない存在は、きっと、ほかにもある。
俺は、味噌や醤油を作る桶の中にも、目に見えない存在が働いていると確信している。俺のもっぱらら興味は、煙硝を作る桶の中で、働いている目に見えない存在を、どうやって手なずけるかだ。
蕎麦の最後の一口をすする。
はじめて、美濃の紙漉きの里へ行ったことを思い出す。鋳物や刃物、それが茶釜や包丁となって、身近になった。桶でつくる味噌から、醤油が生まれた。こういった多くの技術が、流通し、出会い、融合して、蕎麦餅が、こんな美味いものになった。目に見えない何かが、時代を前へ前へと、激しい勢いで、推し進めている。城にこもって、会議ばかりしていると、うっかり時代においてけぼりにされてしまう。
「ご馳走様」
いくばくかの礼を置いて、庵をあとにした。




