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システマイザー・信長  作者: 武田正三郎
風に吹かれて
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比叡山延暦寺

 坂本から比叡山を目指して山道を登っていった。林道の両脇には、鮮やかな青紫色の花をつけたトリカブトが群生している。坂は急で背負子しょいこが肩に食い込みきつかったが、清々(すがすが)しい森の香りが疲れを癒してくれた。

 

 新九郎さんの親父さんはなんでも名門の寺の優秀な僧侶だったらしい。しかし、寺を飛び出して還俗して、商人になったそうだ。現代なら、大学教授から民間会社に転身したようなものだ。商人になったらなったで、室町幕府の借金の踏み倒しでだいぶ悔しい思いをしたらしく、美濃にさし下ってきたのだと言う。新九郎さんは幼いころから親父さんに連れられて何度か延暦寺に来ていたらしい。


 比叡山延暦寺の寺社領地は広大だった。方々に建物があり、それぞれが贅を尽くしたものだった。大きな文殊楼と言う山門をくぐって長い階段を降りると、根本中堂の前に来た。奥に進み作法に従い合掌した。中には不滅の法灯と呼ばれる灯りが、左右それぞれと正面に三つともっていた。開山以来、毎朝夕に燃料のえごま油を絶やさないようにして、一度も消したことがないのだという。「油断」という言葉はここに由来するそうだ。よくみると法灯の風よけの覆いが美濃紙であった。


 参拝を終えて、社務所に向かって廊下を渡っていく途中で、借金の返済を待ってもらうよう嘆願している者を見かけた。どこかの村の村長らしい。新九郎さんによれば、延暦寺の衆徒の中には、年貢が納付ができずに困っている農民に高利で金を貸し付け、返済が焦げ付くと僧兵たちを送り込んで強制取り立てするのだと言う。目ぼしいものがないと焼き討ちをかけて村まるごと召し上げて領地にすることすらあると言う。寺とは何だろう。学問を修める場所ではないのか。


 社務所で順番を待っていた新九郎さんが呼び出された。琵琶湖を横断して荷駄を運送するときには、ここに莫大な金をおさめなければならないのだと言う。こいつらの仕事はいったい何だ。どんな生産性のある仕事をしているというのだ。でっぷりとした腹を法衣で隠して出てきた中年のお坊さんの目じりは、だらしなく垂れ、鼻の下は伸びっぱなしでいやらしかった。新九郎さんが琵琶湖の通行料をうやうやしく差し出すと、奪い取るように受け取った。守銭奴と言っていい。


 金勘定が終わると頼みもしない説法を始めた。不老不死の薬を研究している、もう少し寄進をいただければ、きっと完成してあなたは死の恐怖にさいなまれずにすむ、と言う。バカか。人がいつか死ぬのは当然だろう。学問を修めたはずの偉いお坊さんが、そんな当たり前のこともわからんのか。新九郎さんの「不老不死の薬というのは、どういう具合に作られるのですか」と明らかに義理と思える質問に対して、その坊さんの答えは「門外不出でお教えできない」だった。こいつ、絶対、知らないな、と直感した。そのくせ大僧正が幕府と研究計画を立てているとか、朝廷も大いに期待しているとか、まったく研究の内容と関係のない話ばかりを何度も繰り返している。まだまだ助成金が足らないので、重ねて寄進を頼むと抜かした。そういう金で、僧たちが、坂本の町で魚鳥を食し、酒を呑み、遊女を買ったのか、と思うとむらむらと腹がたった。


 「バカにつける薬でも作っとれ!」


 と怒鳴りそうになったが、新九郎さんの目配せで何とか踏みとどまった。


 新九郎さんは、さらに美濃紙を献上した。目立たないように忍び込ませててある包みは賄賂だろう。新九郎さんも絶対俺と同じで、こいつらバカだと思っているだろうに、それをおくびにも出さず、生真面目に畏まっている。ペラペラとまくし立てる生臭坊主に、はあさようでございますな、とさも感心するように相槌を打っている。そのお坊さんは、あまつさえ、あの大名はここを改善すべきだとか、この大名は軍略が稚拙だとか、学問の探求とはまるで関係ないところにまで、無責任な発言を繰り返している。坊主のくせに大名に忠告するのか。疑問が渦巻く俺を尻目に、新九郎さんは、さらりと丁寧なあいさつをしてその場所を辞した。


 それにつけても、あの坊さんの僧服は何だ。中身がないのを隠すべく、絢爛豪華な僧服を身にまとっている。虚飾とはこういうことを言うのだろう。雄琴で見た遊女の衣装の方がよほど上品に見えた。この僧服は、奥琵琶湖のさらに北の越前の朝倉氏と言う大名から献上されているという。京都の朝廷に商品を納める便宜をはかってもらうための賄賂と言っていい。


 力とは何だろう。権威とはすさまじい。中身なんか何にもないのに、庶民は肩書と服装と建物だけで恐れ入ってしまう。そのうえ寄進しないと仏罰が当たりますぞ、と脅迫されると不安におののく。幕府も不安につけこまれて、多額の寄進をしていると言う。もとはと言えば、その寄進は、庶民の年貢だ。なぜ僧たちのバカ騒ぎのために庶民は重い年貢を納めねばならないのか。なぜ、これだけ腐敗した延暦寺の宗教的権威は少しも衰えないのか。なぜ日本の寺社仏閣は延暦寺を崇め奉るのか。疑問だらけで納得がいかない。


 まあまあ、と新九郎さんが、激昂する俺をたしなめ、法華総持院東塔へ連れて行った。そこには法華経がずらりと納められていた。桃さんが目を輝かせて法華経を手に取った。俺も覗き込んでみた。達筆ではない、きれいで読みやすい文字が整然と並んでいた。ただ読めない漢字が大半で意味は解りかねた。あまりに桃さんが熱心に見いっているので、俺が「解るのか」と聞いたら、桃さんは「もちろん」と言う。どんな意味か、と聞いたら、今、手に取っている「薬草喩品第五」には、人と草とのかかわりについて書いてあるのだと言う。その別冊には何やら薬草が絵入りで解説してあった。俺が「役に立つのか」と聞いたら、桃さんは「役に立つ」と答えた。俺は、


「自分の目と手で確かめていないのに、書の中身が信じられるか」


と桃さんに問い質した。すると、


「自分の目と手で確かめるのは、時間と手間がかかるやら、それに確かめるには危険もあるやら」


と桃さんが答えた。そして


「トリカブトの毒で死ぬかどうか、自分で食べて確かめるか?」


と畳み込まれた。もっともだった。桃さんの勝ちだった。俺は桃さんに一目置いた。


 新九郎さんは、生臭坊主どもよりよほどましな問答だがや、俺と桃さんの問答を目を細めて見ていた。


 知は力なのだ、と悟った。書にはその知が込められている。その叡智を使いこなすのはあくまで人だ。延暦寺の生臭坊主どもには宝の持ち腐れだが、桃はそれを使いこなして役立てる。こんな寺は全部焼き払ってしまった方がよいと思っていたが、腐敗しているのは寺ではなく坊主なのだと納得した。焼き払うべきは建物や衣服ではなく、守銭奴になりさがった生臭坊主の方だった。いつかこの生臭坊主を焼き払ってやろうと思ったが、桃さんが俺の役に立つなら、桃さんのために寺は焼かずに残しておこうと思った。


 ひとりを見て全員がそうだと思い込むのはありがちな間違いだ、と新九郎さんが言った。広い延暦寺にいる若い学僧の中には見どころのあるやつもいる、黒谷青龍寺に連れて行ってやる、と新九郎さんは踵を返した。


 比叡山延暦寺会館に宿泊すると、根本中堂の朝のお勤めに参加できます。そのときは、四月というのに比叡山の木立は真っ白な雪をかぶり、凛とした空気の中で法話をお伺いしました。観光客で賑わう昼とは違う、歴史ある修行の場としてのその粛々とした山の雰囲気を思い出しながら書きました。

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