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システマイザー・信長  作者: 武田正三郎
風に向かって
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墨染の衣

 その坊主は単騎、清水寺を目指したのだろう。俺が楼閣から山門に降りていったとき、ちょうど何人かの坊官が遅れて到着したところだった。


 俺が近づくのに気がつくと、坊主は坊官を目で制すと、ゆっくりとこちらを向きなおった。墨染の衣は質素で、昔、比叡山延暦寺で見たド派手な袈裟とは対照的だった。


 正面を切り、姿勢を正すと、携えていた錫杖を振った。涼やかな音色が響きわたった。この音色は、砂張さはりだ。親父が生きていた頃、甲相駿三国同盟こうそうすんさんごくどうめいを阻止するために鐚銭びたせんを開発した。その鐚銭びたせんを作るには、銅のほかに錫と鉛を混ぜて「砂張さはり」とするのだが、極めて精巧な鋳造の技が要る。錫杖がその最新技術の砂張さはりで作られていることに驚いた。


 さらに錫杖をもうひと振りし、静かに地面においた。


 合掌。


 すう、と息を吸うと、細い眼がかっと開いた。


 「帰命無量きぃーみょうむぅーりょう寿如来じゅーにょーらい南無なーも不可思議光ふーかーしーぎーこー……」


 口から発せられる声明しょうみょうが、夕闇とともに訪れるしじまと入れ替わりに、地を這うがごとく四方に伝わっていった。それは秋の訪れを告げる虫の音に極めて自然に溶け込んだ。そして、まったく知らない言葉なのに、喜びに満ち、穏やかな感謝に堪えない気持ちが俺の中に沸いてきた。その音韻は徐々に律動を帯び、妙なる音色に代わり、緩急高低がうねる。


 「……道俗時衆共同心どーうぞーくじーしゅうぐーどーうしん唯可信斯高僧説ゆいかーしーんしーこーうそうせーつ


 ぴたり。


 わずか残る夕日の最後の一滴が山際に吸い込まれた。


 合掌。


 目が再び三日月のように細くなった。


 「南無阿弥陀仏なーもあみだー南無阿弥陀仏なーもあみだー南無阿弥陀仏なーもあみだー


 さらに合掌。しばらくの沈黙ののち、坊主が再び口を開いた。


 「わては顕如。貴殿が織田信長殿やな。見覚えがあるで。前に、足利義輝様のところへも来てはりまったやろ」


 顕如は続けた。


 「信徒の喜捨は、僧や寺やなくて阿弥陀仏に寄進されたもんや。僧や寺が銭を持ってるわけやあらへん。阿弥陀仏のもんをそのまま矢銭として渡すわけにはいかへんがな」


 阿弥陀仏。目に見えなくても存在するのか。死ぬ前に南無阿弥陀仏なーもあみだーと唱えれば極楽往生できると言うが、そもそも死んだあとの極楽など存在するのか。俺がそう問い返すと、顕如が逆に問い返した。


 「ほんなら、織田殿は、極楽が存在せんことを証明できると言わはりまっか?」


 確かに証明できない。だから仮に存在するとしたときの話だ、と顕如は続けた。人は自分の力で生まれてくることはできない。人がこの世に生まれてくるのは、人を超えたの何かの力だ。これを他力と言う。人の力でどうにもならないのは、人の生き死にばかりではない。そのような他力を本願するのが阿弥陀仏だ、と顕如はさらに続けた。そしてその心のありようと信心と言い、人のふるまいは人の力で支配できても、信心は支配できないと付け加えた。


 「都に秩序が要る」


 と俺は言った。さらに


 「僧や寺が銭を持ってないちゅうなら、銭を持っとったら僧や寺でないとちゅうことやな?ならば、もし僧や寺が銭を持っとったら、騙りやな。そういう連中を取り潰して、銭を取り上げてもええんやな?」


 と念を押した。


 「わてはそれに答える立場にあらへん」


 顕如は静かに微笑んだ。


 浄土真宗に戒律は無い。肉食にくじきも妻帯も自由だ。出家せずとも在家のままでも信徒になれる。この自由さが「南無阿弥陀仏」と唱えれば何でも許されると曲解されることがある。そういう危うさを孕む。しかし自由と無法は違う。真の自由には責任を伴う。俺がたままた武家に生まれたのと同じで、顕如もたまたま宗家に生まれただけだ。まさに他力のなすところだ。信徒は阿弥陀仏の自由な信者で、宗家の信者ではない。だから、他の僧や寺をとやかく言う立場にないのだと言う。しかも信徒のほとんどは在家で僧でもなく寺にいないのだからなおさらだ。


 「農家の惣村の拠点となっている寺社をひとつひとつ回ってもらうほかありまへんな」


 そんな面倒なことはまっぴらごめんだ。矢銭の話は、都の秩序維持のため、幕府に二条御所が要ると言う桃さんと、人たらしの禿鼠の手腕を借りるとしよう。そんなことより、俺が新九郎さんから受け継ぎ、研究している煙硝製造の技術を、本願寺が持っているということが気になった。


 「煙硝を作っているというのは本当か?」


 顕如はさらににこやかな顔になった。


 「農家や工人は何でも自分で作らはります。うまくできるときもでけへんときもあります。これも他力のなせることや。せやから農家や工人には阿弥陀仏を信じる方が多いんやろな」


 日が落ちてあたりはいよいよ暗くなってきた。しかし、よく見れば、顕如の墨染の衣は最先端の木綿か?真っ黒に何で染めた?最新技術の藍の葉を発酵させた染料でもここまでの漆黒は出ないはずだ。


 「ああ、この色でっか。わてらの宗派は法然上人の教えを守る親鸞聖人と同じ子弟同門や。せやから衣冠束帯みたいに色で階級を分けたりせんのや」


 顕如はこともなげに言った。


 錫杖の砂張さはりと言い、木綿の衣と言い、漆黒の染料と言い、煙硝の製造と言い、顕如を支える信徒に、優れた技術を持つ者がいることは察せられた。


 「すっかり暗うなってしまいましたな。お会いできてよかったですわ。ほな、さいなら」

 

 顕如はそう言うとくるりと踵を返し、虫の音が囁く暗闇の中に溶け込むように立ち去った。


 顕如が立ち去ると、俺は夢から覚めたように我に返った。そして、うかうかと不用心にも顕如に会ってしまった自分に気づいた。質素な風体とはうらはらに、あの後光がさすような凄みはいったいどこから来るのか。それが、阿弥陀仏という目に見えない観念的なものの力なのかもしれない。


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