上洛
色鮮やかに紅葉した楓の木々が、夕日とともに寺院全体を染め上げる。末寺も檀家も持たず大衆信仰と拝観のみで支えられる一宗一山一寺。東山から京の都を一望できる音羽山清水寺だ。かつて奈良仏教が荒廃した折に、最澄や空海のように平安仏教を打ち立てた改革派のほかに、本来の奈良仏教の火をこの京の都につないだ僧たちがいた。北法相宗。新興宗派に焼き討ちされたこともある。それでも兼学兼宗と称して表向きはその時々の新興宗派を迎合し、したたかに生き残ってきた。風光明美な景色に隠された堅固な石垣が雄弁にそれを物語っている。荒廃した京の都に宿をとるより警護の面から安心感がある。また軍規を乱さず大所帯を逗留させるにも都合がいい。
足利義昭は、朝廷へ参内し、無事正式に征夷大将軍を任命されたと報告があった。朝廷にかなりの金をばらまいたとは言え、ほっと一安心だ。義昭は、日蓮宗の本圀寺を仮御所として住んでいる。桃さんが警護しているとは言え、治安の悪い都は不用心なことこの上ない。都に秩序を取り戻すには、御所を行政機能ばかりでなく軍事機能を兼ね備えた施設としなければならないだろう。武器や施設の性能は、それを引き出す人間の能力に左右される。無能な人間に高性能な武器を与えることは、武器が無駄になる。また有能な人間に見掛け倒しの施設しか与えないことは、人間の能力が無駄になる。義昭が有能か無能かはまだわからないが、とりあえず桃さんが警護するなら、それなりの施設を与えなければ桃さんの能力が無駄になる。
ともあれご機嫌伺に本圀寺に赴き、板の間で待っていると、側近を従えた義昭がずかずかと足音を立てて入ってきた。義昭は有頂天だった。
「信長、何もかもそちのお陰だ。感謝に堪えん。父と呼ばせてくれ」
満面の笑みを浮かべてさらに続けた。
「余の御所も考えてくれてるそうやないか。やっぱり銀閣みたいな書院造がいいの。兄、義輝みたいに野暮な城など拵えずに、庭石を池の前に、……こう据えてな」
庭石でも墓石でも石には変わらないじゃないか、と思ったが黙っていた。義昭は俺の顔色を窺い、俺が興に乗らないのを見てとると、
「そや、余の副将軍にならんか。それとも管領がええか」
と話題を変えた。そんな形式だけの肩書きなど百害あって一利なしだ。顔を顰めると、
「ほなら、領地がええか」
と切り出した。そして昔の幕府の記帳にでも書いてあったのか、実質的な所有権のない所領を挙げはじめた。そこで俺は義昭の言葉を遮り、
「堺」
と言った。さらに
「それと大津に草津」
と続けた。
義昭は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに笑顔に作り、
「ええ。ええなあ。さすが信長や」
と安請け合いした。
義昭はそのあとも幕府再興について絵空事のような気焔を上げていたが、ひとくさり喋って満足したと見えて退席した。そのあとは桃さんと資金の話になった。
義昭から上洛を請け負ったのは俺だ。だから俺が義昭にその費用の請求するのは当然だ。しかし義昭に金で払わせるのは現実的でない。そこで堺と大津と草津の支配権を金のかわりに請求したまでだ。堺と大津と草津からは、上洛までの費用ばかりでなく、御所の新築費用まで調達しなくてはならない。
大津と草津の支配権を請求するように俺に言ったのは桃さんこと明智光秀だった。大津には上洛の途中で義昭が宿泊した三井寺がある。三井寺にわたりをつけたのも桃さんだった。三井寺は天智天皇が飛鳥から近江に遷都した頃の神社で、渡来して間もない仏教と折り合いをつけるのに神仏習合と称して今に至っている。兼学兼宗と称して生き残ってきた清水寺と何か通ずるものがある。由緒正しい神社の仮の姿の三井寺は、出雲大社や伊勢神宮とゆかりが深い。特に出雲大社は鉄器の製造技術の中心でもある。飛鳥の時代にはじまった稲作を機に、田をめぐる諍いもはじまった。稲作を支えた鉄器はそのまま武器に転用できた。その鉄器の製造技術を支配し秩序を保ったのが朝廷である。そう考えると朝廷こそ天下布武の先駆者と言っていい。足利義光が三井寺の本社を再興したのもその背景を汲んでのことだろう。桃さんはそのあたりについて実に詳しい。
「都の警護の費用は私が大津と草津から調達します。信長様には堺から御所の新築費用の調達と施工を頼みます。昔、新九郎さんと上方見物いった折、信長様だけ堺に行きましたね、懐かしゅうございます」
桃さんの言い方は、いちいちもっともで、どうにも返答しづらい。俺はそっぽを向いて
「デアルカ」
と言った。
桃さんは丁寧にお辞儀してその場を去った。俺も逗留先の清水寺に戻った。
堺から御所の新築費用を調達するのに、まずは旧知の与四郎さんこと千宗易に使いを出した。もちろん、資金調達に先行して御所の設計施工を進めねば短期での新築は望めない。今引き連れている大所帯の逗留費用と人件費を節約するにも工事期間は短い方がいい。また雑兵をにわか大工として使うには、一糸乱れぬ秩序が必要だ。
翌日には与四郎さんからさっそく返事があった。納谷衆の今井宗久を通じて永楽銭と銀で二万貫の矢銭を払うとのことだった。今井宗久は、早い時期から河内鋳物師を集めて鉄砲の生産をはじめており、また舶来の煙硝を独占的に商っている。鉄砲や煙硝の調達では世話になっている。また茶器の名品「松島の茶壺」や「紹鷗茄子」などの献上を受けたこともある。
与四郎さんからもたらされたもうひとつの報告は石山本願寺のことだった。与四郎さんの商いのひとつは魚問屋で売れ残った魚を農家の肥料として売るのだが、一軒一軒の農家に売って歩くわけにはいかない。そこで寺に一括して買い取ってもらい、寺から信徒の農家に小売りしている。その寺の頂点にいるのが石山本願寺だ。その石山本願寺に矢銭の一部を負担してもらおうと持ちかけたのだが、難色を示しているというのだ。このところその石山本願寺は、国内産の煙硝を堺に売ろうとしているらしい。俺が新九郎さんから受け継いだ煙硝の製造がまだ研究途中というのに、すでに国内で商えるほどの煙硝が作られているのか。その石山本願寺の住職が直接説明に行きたいと言っているそうだ。
使いの者から、その与四郎さんの口上を聞いている最中だった。秋の日は短く、もう日が暮れようとしているというそのとき、困った様子で申し訳なさそうに家来が割り込んできた。
「山門に墨染の衣を来た僧が信長様に会いたいと案内を乞うて待っております。石山本願寺の顕如と名乗っておりますがいかがいたしますか」
まさか石山本願寺の住職か。だとすれば与四郎さんが使いを出すのとほぼ同時に住職自ら京へ向かって出立したとしか思えない。背筋に何か冷たいものが走った。慌てて清水寺の舞台から山門の方を見下ろした。そこには笠をかぶり錫杖を携えたひとりの僧が嵯峨野に沈む赤い夕陽を眺めて佇んでいた。その背中の影法師がもみじの散った石畳の上に長く伸びていた。




