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システマイザー・信長  作者: 武田正三郎
風に乗って
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琵琶湖への道

 山道を下る途中、木の枝にぶら下がったつぶつぶの真っ赤な実が目に留まった。手を伸ばして届く高さだった。つまんで口に放り込んだ。甘い。こうぞの実だ。さらさらと流れる板取川の両岸の赤や黄色の紅葉が鮮やかだ。新九郎さんに連れられて紙漉かみすきの里に来てから何年が経っただろう。


 桶狭間と竹千代のいる岡崎で大桶を使った味噌や焔硝の製造がさかんになるにつれて、美濃紙の需要も増えている。製造途中の味噌や焔硝と空気が触れないようにするため紙を使うからだ。良質で安価な美濃紙を確保したい。美濃紙の末端価格を上げているのは、途中の関税だ。市場競争力を持たせるには、市場価格を下げるのがいい。しかし関税で中間マージンを抜かれと、製造元の利鞘がなくなってしまう。


 まずは桶狭間と竹千代のいる岡崎までのルートで関税を撤廃しなければならない。板取川を下って長良川に出て、そのまま長良川を下らずに、関から東に折れて東美濃に出る。坂祝さかほぎから木曽川を下り、五条川を下る。昔、新九郎さんに紙漉かみすきの里を案内してもらったルートだ。そして犬山城、岩倉城、清洲城の順に運ぶ。そこから、桶狭間や岡崎の竹千代のところに美濃紙を届ける。ところが、そのルート沿いにある犬山城や岩倉城には関税撤廃に反対する東美濃の守旧派が集まっている。関税で飯を食っていた連中からすれば、死活問題だからだ。


 禿鼠こと藤吉郎は顔が広い。禿鼠の秀でた才能は、一度見た顔を忘れないことだ。町ですれちがっただけの顔も覚えている。スーパーレコグナイザーと言っていい。しかも聞いた名前も忘れない。今まで泊まった全ての宿屋の奉公人の顔と名前まで全て覚えているというから凄まじい。顔と名前を覚えるのは商人に必要な才覚のひとつだろうが、禿鼠のその才能はずばぬけていた。誰かに名前を憶えてもらえるということは嬉しいものだ。あの笑いを誘う憎めない相好で、自分の名前を呼ばれて愛想よく声がけされたら、たいていの人は蕩かされてしまうだろう。名前など識別できればそれでいい、と言い訳して禿鼠だの猿だのと勝手に人にあだ名をつけている俺からすれば羨ましい限りだ。俺はそんな禿鼠の才能が好きだ。


 さて、そんな禿鼠だから東美濃の野武士にもつてが多い。そのつてを使って、関所を通さずに美濃紙を移出する算段をしに、紙漉かみすきの里にやってきた。


 商人の体裁をした禿鼠が板戸を開いて母屋に入り、例の愛想のいい笑顔で近くにいた職人に案内を求めた。奥から紙漉き職人の頭領が不愛想な顔を出した。禿鼠は、頭領に新しい美濃紙の移出方法について流暢な弁舌で説明した。俺は禿鼠の手下というふうに後ろにあぐらをかいて座り、そっぽを向いて鼻くそをほじくりながらそれを聞いていた。


 「関税を払わずに利鞘が取れたとしても、関所から睨まれたら困ることになるら」


  頭領は顔をしかめた。あの禿鼠を顔を見て顔を顰めるとは、それはそれで大した不愛想だ。


 「しかも一番美濃紙を買ってくれとるのは京や。京に売るには稲葉山城直下の長良川を下らにゃならん」


 禿鼠が待ってましたとばかりに説明する。


 「いったん、犬山に集めた美濃紙を木曽川を使って、墨俣すのまたまで運ぶんや。そこから長浜に運び、琵琶湖の水運で、一気に大津へ。京都まで関税なしで売る。尾張の信長様には、そのルートを仕切る北近江の浅井長政様と同盟する準備がある」


 禿鼠の調子のいい話に、頭領は胡散臭いという顔をしている。職人だけに現実的で、うかうかとうまい話には乗らんというていだ。


 「琵琶湖の水運は延暦寺が仕切っとるやろ」


 「それで困っているのが近江商人や。浅井長政様は近江商人の味方や」


 頭領は腕組みをして考え込んでいる。俺はちょうど爪の先に鼻くその大きいのがひっかかったので、それを慎重に鼻の孔からほじり出そうとしていた。


 「おい、そこで鼻くそほじっている奴」


 頭領が突然声をかけてきた。急に声をかけられても、ちょうど鼻くそほじりが佳境に入ったところである。おいそれと振り向くこともできない。


 「サンスケやないか」


 ついに大物の鼻くそをほじりだし、指先のそれを達成感とともに眺め、頭領にも見せてやろうとして振り返った。そこではじめて頭領が自分の昔の呼び名で呼んでいることに気がついた。俺は指先の鼻くそのやり場に困ってこくこく頷いた。


 「ずっと前に、新九郎さんが連れてきたサンスケやろ?あのときも雑用せんでよう鼻くそほじくっとったわ」


 不愛想だった頭領の相好が一気に崩れた。一人前になるのに十年はかかると言う紙漉き職人だ。新九郎さんに連れられたガキの俺を横目で見ながら師匠のもとで修業していたのだろう。俺は全然覚えていないのに、相手がよく覚えているとうこともある。


 「新九郎様をご存じで?手前も随分とお世話になりました」


 禿鼠が口を挟んだ。紙漉きの頭領はそれを無視して


 「新九郎さんが見込んだサンスケが仲間ちゅうんなら話に乗るわ」


 と俺に向かって言った。


 ここからは犬千代の出番だった。犬千代は喧嘩っぱやくて困った奴だが計算が滅法早い。歩く表計算ソフトみたいな奴だ。それまで米が作れないこの地域での冬の間の農業の副業だった紙漉きを専業にして生産力を上げ、利益を倍増する計画を持ち出した。市場競争力を持たせるため末端価格をさらに値下げしても、途中の関税を撤廃すれば、製造元の利益が十分確保できることをその場で正確に計算してみせた。そしてその利益の一部を売上税として直接織田家に納めてもらい、濃姫と交換に新九郎さんの異母兄弟の斎藤義龍に嫁ぐはずだった俺の妹のお市を浅井長政に嫁がせるときの嫁入り資金に充てることも説明した。


 紙漉きの頭領は両手を振って犬千代の説明を遮り、こっちを見ると


 「俺は計算はわからん。サンスケを信じる」


 と言った。


 話は決まった。俺は記念に柱になすりつけた特大の鼻くそを改めて眺め、「いつか来れたら、また来る」と言いながら立ち上がった。


 お市の婚姻の費用を全額負担すると申し出ると、浅井氏との同盟はすんなり決まった。琵琶湖の水運を活用した近江商人の新しい商売を支援するのにまとまった資本金が欲しかったからだ。犬山城や岩倉城の東美濃の守旧派は鉄砲で叩き潰し、木曽川から墨俣経由の琵琶湖行き関税撤廃迂回ルートを確立した。そして琵琶湖の水運を使って巨大市場の京の都に美濃紙をはじめとする美濃・尾張・三河の新商品を運びこむ。もちろん取引は物々交換ではなく銭を使う。資金の移動が容易になり物流の構造が一変する。守旧派の恨みを買うのは承知の上だ。いつ殺されるかわからない。


 ときどきなぜ俺は命がけでこんなことをしてるのだろうと思うことがある。武家に生まれなければもっと平穏無事な生活を送れたのではないか。昔、大垣で新九郎さんとはぐれたとき、お百姓さんに助けてもらった。あのときは腹が減って死ぬかと思った。食べるものや住むところが無くなれば人は死ぬ。腹が減って死ぬのも鉄砲に撃たれて死ぬのも死ぬことには変わりはない。結局のところ、百姓だろうが武士だろうが命がけで生きているのだ。


 変えようのない生まれた時代や境遇を恨むことぐらいばかばかしいことはない。生きている限り身分に応じた責務を果たす。ただそれだけのことだ。


 新しく整備した小牧山城の櫓に上って、美濃の方を見た。夜空には北極星が輝き、冷たい風が吹いている。星明りの下に広がる平野の向こうに黒々と横たわる山の西の端っこが稲葉山で、そのいただきに新九郎さんが整備した稲葉山城がある。紙漉きの里から長良川でストレートに美濃紙を墨俣に運ぶには、稲葉山城を返してもらわなくてはならない。


 (新九郎さん、そろそろ、かな……)


 俺は夜気を胸に大きく吸い込み、心の中でそうつぶやいた。


 東京オリンピック・パラリンピックの賞状にユネスコ無形文化遺産にも登録された本美濃紙が採用されました。しかしながら原料となるコウゾやトロロアオイの農家が悲鳴をあげています。もっとも遺産に指定されているのは、江戸時代に文献に残された紙の製法で、千三百年の歴史を持つ本美濃紙が中世以前にどうやって作られていたのかははっきりわからないようです。

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