真実の愛、永遠の絆
雨戸の隙間から差し込む光で目が覚めた。
隣には濃姫が寝ている。透き通るような白い肌。形のいい薄紅色の唇。寝ていると二重のまぶたが優しげだ。こんなにも愛おしく思うのはなぜだろう?
雄と雌のある生き物は、つがいを作り子をなす。生き物とそうでないものの違いのひとつは、子をなして増えてゆくことだろう。では子どもを授からない濃姫は、生きていることにならないのか?そんなことはない。生きている。ならば生きているということはどういうことか。
恐らく仕込みの終わった樽の中にも目に見えない生き物がいる。それを神仏と言う言葉で表現することもある。あるものは酒をつくり、またあるものは味噌を作る。またあるものは藍染めの藍を藍より青くする。生きているとはそういうことすべてを含む。目に見えない生き物も、人と同じで十人十色だ。
そして今、俺は、新九郎さんの指南書をもとに、夢の欠片を作る目に見えない生き物を樽に集める工夫をしている。
俺は濃姫に顔を近づけた。額の紙の生え際。一方向に生え揃った眉毛。指でその眉毛をそっと撫でた。
赤子のように握った手を胸のあたりに無造作に預け、すやすやと寝息を立てていた濃姫がうっすらと目を開き、ゆっくりとこちらに視線を向けた。
俺は急に照れ臭くなって、近づけていた顔をあわてて離してそっぽを向いた。その俺の背中に柔らかなものが覆いかぶさった。
「信長様」
濃姫はそう一言囁くと、そのまま俺の背中にくっついてじっとしている。時折繰り返されるありふれた日常。生産的なことは何もないけど、大切なひととき。
濃姫が嫁に来てから何年たつのだろう。俺は実用的で役に立つものが好きだ。では子を産まない女は役立たずなのか?濃姫は俺に必要ない存在なのか。でも濃姫がいなくなったことを想像すれば、濃姫の必要性は明らかだ。濃姫は俺にとって何物にも替え難いかけがえのない存在。俺は存在するだけで役に立つ存在について濃姫に気づかされた。たんぼの案山子と同じだ。案山子は何もしていないが、存在だけで役に立つ。これは親父の葬儀を行った万松寺が標榜する曹洞宗の開祖、道元禅師の只管打座と呼ばれる禅の教えだ。
褒められる人は、役に立つ行動の対価として褒められる。だから戦功を挙げた家来は褒めねばならない。褒められるためには働かねばならないから疲れを伴う。でも愛おしい人は、ただそばにいてくれるだけでいい。疲れることはなく、むしろ癒される。多分、愛おしいとは、そういうことなのだろう。
このままずっと濃姫とくっついていたい。この俺の気持ちに嘘偽りはない。しかし、そうは言っても飯も食わねばならないし、厠にも行かねばならない、どういうわけか武家の当主に生まれたので、したくもない武家の取りまとめもせねばならない。生死を賭けた戦もせねばならない。それが現実というやつだ。俺は濃姫からそっと離れて、本格的に起きることにした。
「今日はお父様の命日。美濃の常在寺にお父様の遺影を奉納して参ります」
濃姫は、懐かしい新九郎さんの肖像画を絵師に描かせていた。がっちりした躯体。情熱あふれる精悍な顔。涼やかな雰囲気の中にも優しさをたたえた目。在りし日の新九郎さんの姿がいまそこにある。遺影は本人ではないし、何か働きするわけでもないが、やはり役に立っているのだろう。
身支度をして食事を済ました濃姫が、僅かな供を連れて挨拶した。
「行って参ります」
耳をくすぐるような甘い声とこぼれるような笑顔をこちらに惜しげもなく撒き散らすと、いつものように出て行った。出て行ったと思ったら、すぐに戻ってきた。忘れ物でもしたのか。近くまで顔を寄せて俺を見上げ、
「信長様、屋敷を出てすぐのところに石竹色の花が咲いているのを見つけたわ。それが言いたかったの」
さっきよりさらに上等な笑顔をこれでもかとまき散らすと、今度こそ出て行った。
濃姫を見送ると、俺も仕事に取りかかった。しなければならない仕事は山ほどある。まずは、弟の信時と、内密に信勝のいる名古屋城に赴くことだ。桶や樽を作るための杉を集めるためだ。
屋敷を出て外に出た。道端には抜けるような青空のもと、菜の花の透き通るような黄色が日の光に輝いている。お世辞にも良いとは言えないの花の香りがあたり一面に漂っている。新九郎さんと再会したときも、新九郎さんが戦で儚くなったときも、汗ばむぐらいのぽかぽか陽気だった。
名古屋城に入ると、弟の勘十郎信行を補佐している柴田先生が出てきた。そして俺の杉材の調達に難色を示した。そんなことに散財するくらいなら、増税して家中の混乱を治める手立てに充てるべきだと言う。最高機密の夢の欠片について話すわけにいかないから、余計に交渉しづらい。もともとおかんは俺のやることなすこと気に入らないのだ。たとえ庶民の不満が噴出していても、武家の品位が落ちたら仕方ないじゃない、といきまいている。勘十郎は品行方正でおかんの言うことには逆らわない。おかんも勘十郎も飢えるということがわかっていない。俺は新九郎さんからはぐれて彷徨ったとき、飢えるということがどれだけ辛いものか身に染みている。戦に勝つことよりも戦を起こさないことの方がいいに決まっている。そのためには皆でそこそこの食い物にありつけることが大事なのだ。明日の命も知れないと思ったら、目先の奪い合いの方が大事になる。だから柴田先生の言う増税には応じられない。交渉は決裂して、帰途に着いた。
出かけるときには晴れていたのに、帰りは急に暗くなって風が出てきた。これは一雨来るかと急いだのだが、ついに降り出して、清州城に到着することには土砂降りになってしまった。濡れ鼠になって城門をくぐると、家来が心配そうな顔をして飛び出してきた。話によれば柴田先生は俺を暗殺しようと企んでいたらしい。物騒な話だ。それを聞いて肝を冷やした。
雨に濡れた体を拭きながら濃姫が出がけに言っていた石竹色の花のことを思い出した。雨に気を取られて気づかなかった。濃姫が美濃から帰ってきたらどこに咲いていたのか聞いてみよう。
家臣たちが家中の混乱を治める算段をしている。俺は柱にもたれかかってそれを聞きながら考えていた。勘十郎は利口な奴だ。きっと話せばわかる。しかしとりまきがそれを許さない。俺は仮病を使って勘十郎を呼び出す計画を立てた。おかんがいっしょならともかく勘十郎ひとりなら何とか説得できそうな気がする。兄弟でいがみ合うとろくなことにならない。新九郎さんも結局は弟に滅ぼされたようなものだ。なんとか家中の混乱を治めねば、夢の欠片どころではない。もし平手先生が生きていればどんな立ち回りをしただろうか。そんな風に家中の混乱を収める方策に心を砕くにてんてこ舞いの毎日を過ごしていた。
そうこうしているうちに日数がたって濃姫が美濃に連れて行った僅かな供が帰ってきた。濃姫がいないのに気づいた俺が尋ねた。
「濃姫はどこだ?」
家臣が困ったような顔をして目を伏せている。俺ははっきりしないことが嫌いだ。イライラしてきた。すると、家臣が重たそうな口を開き、ことの仔細を話し始めた。
「濃姫様はまだお戻りになっておりません」
新九郎さんは、樽や桶を作る技術を舟に応用した、盥舟の開発を始めていたそうだ。その試作品が新九郎さんの遺影を納めた美濃の常在寺にあった。新九郎さんはまだ未完成だからとその盥舟を常在寺に封印していたらしい。それを見つけた濃姫は早速、それを試してみようと言い出し、従者に命じて長良川に浮かべ、その盥舟を操作しようと試みていたそうだ。きっと俺の樽と桶の研究に少しでも役立てようと思ってやったに違いない。
その日は天気も良く、近くの中州で数人の村の子供たちが川遊びをしていた。そこへ急に雨が降ってきて、にわかに川が増水し、あっというまに子供たちが中州に取り残された。水かさはどんどん増してついには中州を飲み込む勢いになった。
それを見つけた濃姫は、すぐに子供たちを助けるように従者に命じて、自らも助けに向かったそうだ。そんな経緯で皆で流れに入り、無事子供たちを助け上げてみたら、濃姫だけいつの間にかいなくなったと言うのだ。
「流されたのか?溺れたのか?」
俺が問いただしても、家来はわかりませんと俯くばかりだった。
人が溺れるのに、大人か子どもかとか、泳ぎの上手い下手とかは関係ない。肺に水が入れば、息が止まる。息が止まれば、声も出さずにそのまま沈む。戦場なら首検分をすれば、生き死にを確かめることができるが、長良川の中とあっては、生き死にを確かめることもできない。死んだ可能性が高い。しかしそれを口に出すのは憚られた。
濃姫は行方不明になった。生死は定かではない。生きているとはどういうことか?俺がそう信じている限りは生きているし、俺が諦めた段階で死んでしまう。濃姫の生死は俺の胸三寸で決まるということか。俺はまた生きているということがわからなくなった。
幸若舞の一節が口から自然に漏れ出てきた。
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を得て 滅せぬもののあるべきか」
濃姫は、子宝に恵まれなかった分だけ、子供が大好きだった。雨で増水して中州に取り残された子供たちが無事助けられたことがせめてもの救いだ。
ひとりで夕食を済ませた。いつもひとりで何やかやと他愛のないことを喋っていた濃姫がいないだけで、何かぽっかりと穴が空いた気がする。飯が喉を通らない。その夜は、そのまま床に就いた。
雨戸の隙間から差し込む光で目が覚めた。
隣に寝ているはずの濃姫はいない。
自慢の蛇の抜け殻を見てくれた濃姫。鉄砲の素晴らしい腕前を披露した濃姫。よもぎで親父に草餅を作ってやった濃姫。流産して落ち込んでいた濃姫。出がけに花を見つけて楽しそうに語り掛けてくれた濃姫。出会ってから全ての喜びと悲しみを分かち合った濃姫。
濃姫、濃姫、濃姫。
誰も寝ていない畳を見つめる。失われて気づく日常の大切さと、真実の愛で培った永遠の絆。
濃姫が死ぬわけが無い。絶対に生きている、きっといつか帰ってくる、と自分に強く言い聞かせ、勝手に溢れ出てくる涙を手で乱暴に拭い払って立ち上がった。




