赤き老婆心
田圃の様子を見に野駆けに出た。大半は既に稲刈りを終え、拵えられた稲架に刈り取られた稲束が干され、今にも暮れそうな秋の夕日に照らされて、長い影を伸ばしている。何ともなく畦道に腰を下ろした。足元にあった藁しべの先っちょに赤とんぼが飛んできて止まった。風があたりをひと撫ですると燃えるような赤いしっぽをぴっと立てて姿勢を正した。あたりを見ると、赤とんぼは皆同じように風に頭を向けている。いつでも風に向かって飛び立てるようにだろう。その様子をぼんやり眺めながら、平手先生の言っていたことを反芻した。
あの日、俺は、職人名簿が入った茶壺を粘土の鉱山で無くしたことを、平手先生に有体に白状した。平手先生は驚いた風だった。やがて静かに口を開いた。
「爺も吉法師様に言わなならんことがあるんや。息子のことや。粘土の鉱山で吉法師様が馬に乗ったとき息子が吉法師様の落としていった茶壺を拾ったそうや。息子は吉法師様に自分の馬を取られたと思って、癪に障った息子は、腹いせに茶壷を叩き割って投げ捨ててきたちゅうんや。流石に後ろめたかったやろな。爺にこっそり白状した。まさかそん中に、職人の名簿が入っとったとはのう。それで、坂祝の鋳物職人がさらわれたちゅうことは、誰かがその名簿を拾って、敵対勢力の手に渡してまったかもしらんちゅうことやな。手渡したのは家中の者かもわからん。まずは、どこに渡ったんか、家中にも内密に調べなあかんな」
その日以来、平手先生は、家中にも悟られないよう、あちこち内偵しているようだ。平手先生には、いつも世話になりっぱなしで全く頭が上がらない。
ふと我に返ると、いつまにか日が沈み、夕焼け色の残照に照らされた田圃は、幾重にも重なって遠く霞む山々の輪郭へ続いている。あの赤とんぼは、どこかにいなくなってしまった。そろそろ帰らねば、と腰を上げた。
屋敷に帰る途中、万松寺の門前町を通りがかった。その辻で見慣れない商人が広げていた品物を片付けようとしていた。聞けば相模の小田原から来たと言う。場所代さえ払えば、関税がかからないから遠国からも商人がやってくる。商品は仏具であった。その中から、鈴を手に取り、叩いてみて驚いた。チーンと澄んだ音がする。この音! 秘伝の砂張だ。さらわれた鋳物職人が北条氏のもとまで連れて行かれたに違いない。俺はその仏具をひとつ買うと、平手先生の屋敷へ急ぐことにした。
平手先生にその仏具を見せると、果たして苦虫をかみつぶしたような顔をした。
「砂張の秘伝の技を持った職人が、北条へ流れてまったようやな……ちゅうことは今川や武田にも流れておるやろな」
そのことは、甲斐の武田氏、相模の北条氏、駿河の今川氏の甲相駿三国同盟の準備が整ったことを意味した。そしてそれは同時に尾張・美濃・飛騨が手を組むプロジェクトが水泡に帰することを意味した。
鋳物職人を失った坂祝の工場では鐚銭の生産が滞っている。織田家の諸々の支払いが滞っている。このままでは、濃姫の輿入れ料も払えなくなる。鉄砲五百艇の代金も払えなくなる。新九郎さんまで連鎖倒産する恐れがある。俺がとんだへまをやらかしてしまったために、だ。ごめん、新九郎さん。
俺がうなだれていると「やるべきことを、やれ、と親父さんに言われたんやろ? まず今夜は帰って寝たらええがや」と、平手先生に促され、俺は自分の屋敷に帰った。
どういうわけか次第に家臣たちに織田家の諸々の支払いが焦げ付いていることが知れ渡ってきた。家臣たちがそのことを突いてきた。俺に責任をとって当主を降りろと言うのだ。俺を廃嫡して、自分の都合のいいやつを担ぎ上げようとする連中がたくさんいる。職人名簿を横流ししたのはそのうちの誰かかもしれない。弟の勘十郎信行をはじめ、信友だの信賢だの親父の信秀の信の字をもらった兄弟の多いこと。その兄弟の誰かを擁立しようというのだろう。平手先生が、連日朝から晩まで、俺のしりぬぐいに駆けずりまわっている。
朝夕の冷え込みが厳しくなった頃、ぱたりと平手先生が来なくなった。心配になって屋敷に行くと風邪をこじらせたと言って寝込んでいた。頭がガンガンと痛み、吐き気や喉の渇きなど一日中ずっと不快感が続くらしい。いい加減、いい歳なのだから、無理をせねばいいのに。と思ったが、その無理をさせるようなことをしたのは俺だった。
雪が降る頃になっても平手先生の風邪は治らなかった。治るどころか見舞いに行くたびに体の色が黄色になってきた。まさかと思い、腹を見せろ、と迫った。平手先生は抵抗したが、無理やり着物を脱がせて腹をあらわにすると、その腹はぽっこりと膨れて、気味悪い模様が浮き出てきた。平手先生が観念したように言った。
「聡い吉法師様のことだから、もうわかっているやら。どうやら信秀さまの病をもらってまったらしい」
なす術もなく、そのまま新年を迎えた。親父の喪中だからお正月の宴はない。しかし家中の月例評定がある。その相談のため見舞いをかねて内々に平手先生の屋敷を訪れた。平手先生はやつれた顔で呟いた。
「爺の体はもう動かん。すべてを爺がひっかぶれば……」
極秘裏にしていた尾張・美濃・飛騨同盟の密約の件や個人情報の流失の件はあの世に持ってゆき、全ては平手先生ひとりが勝手にやって失敗したことにして責任をひっかぶるというのだ。そんなことできるわけがない。
「吉法師様。まあ聞いてくれんか。若い者にいろいろへまをやらかすのは当たり前のことやし、年配の者が若い者のしりぬぐいをするのは当たり前のことや。そやなかったら若い者が思い切り羽を伸ばして、新しいことに挑戦できん。今、明や南蛮から新しい技術や考え方がどんどん入ってきとる。室町幕府のやり方が時代について来てないことは、爺にもわかる。古いやり方を変えなあかん」
また平手先生の説教かと思ったが、病にやつれた平手先生の真剣なまなざしに席を立つのが憚られた。
「変える、というのは、今までのやり方をやめるちゅうことや。けどな、ずっとやってきた何かをやめるちゅうのはとても勇気が要ることや。やめるとなんだか罰が当たるような気がして、そのやり方にしがみついている臆病な連中が、やめさせんようにやっきになって突っかかってくる。因習に固執する年配の者が、言いなりになる若い者をそそのかして結託するのは、そのためや。そして新しい方と敵対する。それが今の乱世や。下剋上や。歴史をひもとけば、いつの時代も新旧の世代交代にはこんなひと悶着が必ず起きている。古い方も新しい方も自分が良かれと思って戦っとる」
俺は、あぐらを組みなおした。
「そういうときはな、何が正しいか現実を見たらええ。誰が言ったか、ではなくて、何が正しいか、や。現実は嘘をつかん。肥料にしろ鉄砲にしろ銭にしろ、昔無かったもんが今はどんどん必需品になってるんや。そして、そういう新しいもんと向き合って新しい時代を担っていくんは、他でもない若い者や。昔がどうだったかより、これからどうするかを決めていかなあかんのや。若い者が自分たちでそういう時代を作っていかなあかんのや」
平手先生は、ここまで言って、一息ついた。そしてにっこり笑った。
「爺に残された時間はもう残り少ない。でもな、吉法師様には爺の何倍もの時間がある。だから吉法師様はこんなところでくよくよ立ち止まったらあかん。もっともっと前に進まなあかん。竹千代様に天下統一して平らかな世を作るて約束したんやろ? ここはひとつ爺に任せてはくれんか? 爺に夢を見させてはもらえんか? 爺にカッコつけさせてはもらえんか?」
平手先生の説教はいつになく長かった。しかし俺はその雰囲気に飲まれて最後まで相槌を打ち続けた。
数日後、平手先生は、主だった家臣を自宅に集めた。そして俺には、席を外すように言った。
俺は言われるがままに、屋敷の外に出た。庭をぶらつきながら塀の狭間から、うっすらと雪の積もった茅葺き屋根が連なる街並みを眺めていた。薄日が差しているがとても寒い。その寒さに思わず首を縮めたところで、誰かに肩をぽんとたたかれたような気がした。平手先生のような気がして、
「首尾よく行ったか?」
と後ろを振り返った。そこには誰もおらず、冬の冷たい一陣の風が通り過ぎていっただけだった。気のせいか、と思って前に向き直ろうと思った矢先に屋敷から血相を変えて走ってくる家臣に気がついた。
「平手中務殿、ご自刃!」
はあっ? 耳を疑うより早く、立ち上がって駆けだしていた。
息せき切って座敷に入ると、蜂の巣を突いたような大騒ぎだ。そこには腹に刀を突きさして突っ伏したまま息の絶えた平手先生がいた。聞けば、平手先生は必死になって俺を弁護し、当主として支援してくれるよう家臣団に土下座までして頼んだと言う。諫め状まで認めて俺の振舞いを改めさせ、必ず織田家を建て直すと約束していたのだと言う。しかし俺の廃嫡を企てている家臣のうち何人かは、信じられぬと俺の非を激しく責め立てたそうだ。その瞬間、平手先生は、「吉法師様の不始末は、全てこの傳役の不徳の致すところ。かくなる上は、我が命を以て織田家の人柱とし、吉法師様の廃嫡を企てる輩には、怨霊となりて祟りをなしてくれる!」と大音声に叫び、止める間もなく脇差を抜き、自らの腹に突き立てたというのだ。
恐らく、端から覚悟していたのだろう。
それにしたって、命まで懸けて俺のへまをかぶらなくてもいいに決まっている。平手先生が風流好きなのは知っていたが、何もここで格好つけなくてもいいではないか。
(俺だ、俺だ、俺のせいだ)
まだぬくもりの残っている平手先生の躯にしがみついた。戦で人の死ぬのは幾度となく見てきた。しかしついさっきまで会話を交わしていた相手が、もう二度と口をきくことの無い肉塊に変わっているという現実は辛かった。説教でうるさかった口はもう二度と開くことはなく、それはもう帰らない思い出として遠く過去に飛び去ってしまった。思い出があればあるほど、失われたものは大きく、悲しく、そして切ない。
このまま、平手先生に俺のへまをなすりつけたままでいいのか。そんなことはできない。そうだ。全てのことを洗いざらい家中のものに正直に話そう。そう思って皆に向き直った。そして口を開こうとした。
(なりませぬ!)
どこからか平手先生の声がした。
(それでは、爺が無駄死にではありませんか)
そうだった。平手先生の思いは新しい世の中に向いていた。俺のへまがどうこうではなく、もっともっと大きな真心から、命を懸けて未来を俺に託したのだった。個人の感情に流されてはいけない。平手先生の教えを守らなければならない。
平手先生の手から血塗られた脇差をもぎ取った。開こうと思った口を結んで、その脇差を前に突き出した。
「平手先生を責めたのはどいつだ?」
家臣の目線が一斉に動く。その目線の先に蒼白になった坂井何某がいた。またあいつか。何度、織田家中の規律を乱せば気が済むのだ。そいつを睨みつけ、脇差を前に突き出したまま、あごでしゃくって、こちらに来るよう促した。押し出されるようにおずおずと出てきたそいつは、信友様にお願いしようと言ったのは、織田家のために良かれと思ってのことだの、あくまで信長様のご負担を減らそうと思ってのことだの、だから平手殿の祟りを受ける謂れは無いだの、ぺらぺらと言い訳をまくしたてた。よくもまあ口が回るものだ。そのうち、ご懸念の職人名簿は厳重に保管してあるのでご安心を、と言ったので、
「なぜそれをおぬしが知っているのだ?」
不審に思ってそう尋ねた。途端、坂井何某は、しまったとばかりに口を噤んで、ひれ伏して「平にお許しを」の一点張りになった。後は何を言っても答えなかった。なんだかばかばかしくなった。手にもっていた平手先生の脇差を、ぽんと放り出し、改めて家臣をぐるりとねめつけると
「俺が当主だ」
と言い捨てて、座敷の外に出た。ふと見ると庭石のそばに心配して駆け付けてきた小姓の犬千代が控えていた。その律義さが嬉しかった。こいつは因習に固執する年配の者の言いなりになったりはしない、と思えた。犬千代は、
「のらりくらりとあの坂井めが。萱津の戦いのときに叩き切ってやればよかった」
と、まるで自分のことのように息まいた。それをたしなめて濃姫の待つ屋敷に帰った。
濃姫は、いつものふわりとした雰囲気で俺を出迎えてくれた。濃姫の眼差しに俺は胸につかえた硬く凝り固まった何かを、にわかに思い出した。濃姫は俺の様子に何か察したのか怪訝そうな表情をしている。
「平手先生が」
死んだ、と続けようとしたが、それは言葉にならずに、途中で嗚咽に変わった。崩れ落ちる俺を濃姫は何も言わずに抱きとめた。濃姫の両の腕が俺を優しく包んだ。俺は濃姫の胸に顔をうずめて、赤子のように泣きじゃくった。




