リケジョ・濃姫
まだ風が冷たい。東屋で寝転がっていたら、どこからか梅の花の香りが漂ってきた。
誰かに聞いた話を思い出した。梅は老木が良いとされる。桜と違って、その曲がりくねった枝と、ひとつふたつぽかりと咲いた梅の花に赴きがある。若い庭師が師匠に弟子入りすると、師匠から一本の梅の若木を与えられる。それから長い年月を経て師匠が年老いて亡くなり、自分がかつての師匠と同い年になってはじめて自分の育てた梅の枝ぶりがわかる。若木を無理に曲げれば折れる。若木を放っておけば乱れる。曲がりくねった趣のある枝ぶりにするには、若い頃からの辛抱強い精進と長い年季がものを言う。人の成長も梅の木に似ているな、と思った。
今頃、美濃からきた蝮の娘と俺の婚儀の真っ最中であろう。親父は、俺が蝮の娘を嫁にするかわりに鉄砲五百艇を都合すると言ってくれた。しかし、俺は婚儀に参加するとは一言も言っていない。だから平手先生の目を盗んで、屋敷を抜け出してきた。
元服の悪夢が蘇る。堅苦しい儀式は、あの元服だけでまっぴらだ。拘束されているだけでも苦痛なのに、おとなしくしろ、ああせい、こうせい、とやかましくてかなわない。しかも、おめでとうございまする!を何度聞かされなければならないのだろう。言っている方は、一回ずつでも、聞かされる方は、たまったものではない。何の説明もなく、納得できないまま、人の言いなりに拘束されるのが儀式だとしたら、儀式は何のためにあるのだろう。この地上で儀式ほど嫌いなものはない。婚儀では、それが三日も続くと聞いて、びっくり仰天した。それで、花婿衣装だけひな壇に脱ぎ捨てて、逃げ出してきたと言うわけだ。
「吉法師様!」
やばい。見つかった。あの声は平手先生だ。逃げようとしてがばっと跳ね起きたものの、家来どもがあたりからわらわらと出てきて羽交い絞めにされてしまった。そのまま、引きずられるようにして、屋敷に連れ戻されて、婚儀のひな壇に据えられた。窮屈なことこの上無い。いい年こいた大人がこの儀式に大挙して押し寄せている。どれだけ暇人なんだ。
隣には白無垢姿の蝮の娘が座っていた。俺は女の醜美の定義を知らない。しかし美女は国を傾けると言う。ならば美しい女とは、国を傾ける女のことなのか。とにかく尾張の国を傾けられてはかなわないということで、美濃姫とするところを、「美しい」を取り濃姫と呼ぶことにしたらしい。まったく名前などどうでもいいことに大層なこだわりようだ。
蝮の娘と言うから、口が耳まで裂け、目がらんらんと輝き、毒を四方に撒き散らしている恐ろしい娘と思いきや、白無垢姿の花嫁は、可憐で優し気な雰囲気をまとっていた。角隠しの脇からのぞく肩まですとんと落ちた髪が、何かにつけて揺れるのが可愛かった。ちらりと見える真っ白で柔らかそうな肌を見ていると、なぜかいらいらが収まった。濃姫のふわりとした雰囲気とはうらはらの、きりりとひきしまった目元をみたとき、ふとどこかで会ったような気がしたが、思い出せなかった。
やっと婚儀が終わった。着替えて居間に入った。おつきの侍女が席を立つと濃姫とふたりきりになった。部屋の空気が急に重たくなって、なんだか息苦しくなった。色白の肌に映える薄紅色の唇が気になるのだが、見ていたらなんだかいけないような気がして、目のやり場に困った。そっぽを向いたまま、横目でこっそり見ていると、濃姫は、俯いたまま、指で畳の目をさすっている。何をしゃべっていいのかわからない。勇気を振り絞って、
「あの……」
と、声を発したのは俺だけではなかった。急に目があったのにびっくりして、お互い慌ててまた視線をそらす。
「あ、どうぞ……」
二人で譲り合ってどうする。どうにもばつが悪い。でも不快というわけではない。むしろ心地よい。何かしてやりたいような気になる。
何かないかと考えるうちに、よいことを思いついた。思いついたら、即実行するのが、俺の性分だ。さっそく行動を起こした。今まで集めた蛇の抜けがらのうち、一番大きな自慢のやつを持ってきて見せてやった。きれいに洗って陰干ししておいたやつだ。
濃姫は、口を押えて、一瞬驚いたふうだったが、俺をまじまじと見るなり、ぷっと噴出した。人が真剣に慰めているのに、なんて失礼なやつだ、とは思わなかった。なんだか逆に癒されて、思わずつられて笑ってしまった。その屈託のない笑顔に、どういうわけか幸せがこみ上げてきた。俺の中で何かが目覚めた。
「よろしくね」
小さな声で、伏し目がちに言った、胸がきゅんとなった。
「触ってもいい?」
蛇の抜けがらに触る許可を求められたのは初めてで、一瞬戸惑ってしまった。俺がぎこちなく頷くと、彼女は壊さないように、そっと蛇の抜けがらを手に取ると、しげしげと眺めた。
「アオダイショウね。マムシやヤマカガシは毒があるし、シマヘビは気が荒い。そこへいくとアオダイショウは、おとなしくて流行り病の元になるネズミを食べてくれる。アオダイショウは、家の守り神だものね」
驚いた。おかんなぞは、蛇と聞いただけで、見もせずに、あからさまに嫌な顔をしたのに、この女ときたらどうだ。抜けがらを見て、そこまですらすらと答えるとは、何たる観察力だ。何か言おうと思いながらも言葉に詰まっていると、
「信長様、なんだか私のお父さんに似てる」
と言って、にこっと笑った。薄紅色の唇から白い歯がこぼれた。鉄漿を施していない歯は、童女のあどけなさが残っていて、とても可愛らしかった。いかん。ここでうっかりデレデレして、主導権を握られようものなら、男子の沽券にかかわる。ここはひとつ何か大人の学のあるところを見せねばと、思い巡らし、
「でかいカブトムシの獲れるところを知っているぞ!」
とふんぞり返った。口に出してから、しまった、と思った。まだ風が冷たい春ではないか。慌てて
「夏になったら、連れて行ってやる」
と取り繕い、そっぽを向いた。余計に墓穴を掘った気がする。
彼女は、手で口を押えてクスクスと笑いながら、ありがとう、と答えてくれた。




