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 なにかをしながら、なにかをする人間のことを、ながら族と言う。

 今現在も、俺はテレビを見ながらおっさんにあてられた「督促状」や「家賃滞納について」といった不幸の手紙を読んでいる。手紙には、今すぐ借金を返さないとどえらいことになりますよ。家賃を払わないと血の小便が出るくらい後悔させますよ、といった文言がある。安直に良い気味だと思ってしまうのは道徳的によろしくないので、色々大変だよね、とちょっと同情の念を感じながら良い気味だと思った。

 と、テレビを見ながら手紙を読み、ときに同情したりしている。俺は、ながら族。

 時間を大切にしようとするあまり、なぜかその一事に集中できない。ひとつのことを始めると、別のひとつが気になり、それを始めるとまた別のことが気にかかってしまう。で、結局集中力が散漫になってなにひとつ打ち込むことができない。

 みんなそうなのか。どうなんだろう。

 って、考えてみてもおっさんの家には俺とおっさんしか居らん。

 河原の浅まし焼き肉から帰ってきてから先、おっさんとは大した口を利いておらん。向こうは嫌な顔をしていないのだが、俺はすでに田中のおっさんを軽蔑しているので、大して話をすることがない。

 だったら、帰宅すりゃいいじゃねえか。いつまでも人様の家に文句言いながら居候してんじゃねえよ。と、まともな俺が語気を荒げてつっかかってきた。

 この人が気に食わぬのなら帰ればよい。しかし、帰ってしまうと就職探しが待っている。気の滅入るハロワ、あっこへ行かなくてはいけない。

 一度始めた、田中さん探しは、田中さんと別れた時点で終了する。田中さんを探すことができたなら、職探しをする、という俺の中での決めごと、それを守るか破るか決断しなくてはいけなくなる。

 俺はその現実を理解していて、まるで刃物でも突き付けられたかのごとく慄然としていた。

職探しとおっさんの家にステイ。天秤にかけると、おっさんの家にステイすることの方に傾いてしまう。

気が重くなっていけないので、あっそうだ、久々におっさんと何か話をしようか、と俺は思い立った。

「あのさあ」

「え、なに?」

「さっき食った焼き肉うまかったよね?」

「ああ。普通にうまかったけど」

「そういえば、まだウィスキー少し残ってたよね。ちょっとあれをやろうか。どこにしまった?」

「え、普通に冷蔵庫だけど」

「よっこらしょっと。ウィスキーを持ってきて、台の上に置いたぞ。コップも二つあるし。さあ注いだぞ。さあ、乾杯しよう」

「え、これなんの乾杯?」

「なんか、よく分からないけどさ。俺たちには関係ないかもしれないけどさ、今日はなにかしらの記念になってるわけじゃない? それに対しての乾杯だよ」

「記念日とか別にいいけど」

「じゃあ、ウィスキー記念にしよう。俺は一杯飲んだぞ。そして、おっさんは惜しそうに一口くらいしか飲んでいない。俺はウィスキーの瓶を持って、再び自分のコップに注いでいる」

「なんでさっきから描写的なの?」

「なんかこう、気分を出してさ」

「あそ」

 と、おっさんはウィスキーを一口飲んだ。おそらく、俺が帰った後で、一人で飲もうっていう魂胆なのだろう。なかなか飲まない。

「でも、よく大家さん、ここに置いてくれるな。だいぶ滞納してるんでしょう?」

「まあ、普通に半年以上は踏み倒してるけど」

「大丈夫なのか? 実は親が払ってるとか」

「え、普通に知らんけど」

 そっけない態度、というか完全に人を食った態度に俺は怒りの念を抱いた。

「さっきから普通に普通にって、なんなの、あなた? むかつくんですけど。おっさんの人生では尋常のことしか起こらないの? そういうことなの? っていうか、家賃滞納してギャンブル中毒の時点で尋常ではござらんが。常時ニュートラルってことですか?」

 と、少しだけ強い語調でありながら、かつ半分ほど笑いながら言った。

 この先、どのくらいここに居座るか分からないので、喧嘩を避けたのだ。

 さすがに、おっさん、俺が怒っているのに気付いた様子である。わざと土偶のような細い目になって、それから意図的に平然を装って、

「おもしろい」

 と言った。

 俺、腹の中で煮えたぎる熱湯が、赤くどろどろしたマグマに変ずるのを感じた。

 この言葉はつまり、おっさんが俺をねじ伏せるために自分の立場を、俺よりも三段階くらい上に位置づけることで、愚かな俺の怒りを遥か高みから見下ろすという姿勢である。

 つまり、盤石の地位を得た王が愚民を、どれどれ、少しは愚民の愚かな言動というものを観察してやるか、ほっほっほ、という意味の「おもしろい」という意味である。

 むかつく。ふざけんな。なめんな。目がキモイんだよ。

 そういう類の語彙が千万とぶわっ、という音とともに頭に湧いて、

「はあ、なにがおもしろいんだよ。言ってみろ」

 すると、おっさんはまた、

「おもしろい」

 と腕組みをして、王様然として俺を見下すスタンスを貫こうとする。

「だから何がおもしろいんだよ」

「おもしろい」

「だからなにが、」

 と繰り返していると、

 玄関の方から、戸を叩く音がした。

 普通の音ではない。玄関をぶち破ろうとしているような、全き容赦ない音であった。

 驚いて、玄関の方を凝視した。

「おいこら、いんだろ。ちんカス野郎。いつまで払わねえ気だ、こら。返すもん返せや」

 って、もう考える必要も無く借金取りだ。おそらく二、三人はいるようだ。

 少し驚いたが、俺には関係の無いことなので、意外に俺は夏の昼下がりのような涼やかな心持であった。

「ふわ、来た!」

 とおっさん、実に情けない声で飛びはねた。そして、チュパカブラのような中腰の姿勢で身構えた。

 おっさんは今まで見たこともないような怯えた表情で、青い顔をしていた。

 玄関で、戸を殴る音は止まない。

「おっさん、どっから金借りてんだよ。変だと思ってたけど、やっぱ闇金から金借りてたのか?」

「しー、黙って」

 おっさんは物凄い形相で、口元に人さし指を当てた。

 滑稽であった。しかし、なんだか濡れた子犬のように可哀そうでもあった。

 玄関のガンガンは数十分ほど続いた。

 その間、おっさんは部屋の隅に耳を塞いで小さくなっていた。

 中年が、本気で何かを怖がる態度を生で見た。

 借金取りが家の周りをぐるぐる回るような足音がして、それからややあって、静かになった。

「行っちゃったみたいだけど」

 俺は言った。

 おっさん、ただ無言。ひきつった顔のまま、何も言わなかった。

 翌日。居間で雑魚寝していた俺、目を覚ますと、おっさんがいなくなっていた。

 便所や押し入れその他を探したけども、まるで気配がない。玄関に向かうと、おっさんの靴がねえ。

 どっか行ったのか。居間へ戻ると、日めくりの裏に殴り書きで、

「兆げます」

 とあった。

 おそらく精神的な余裕など無かったのだろう。字、間違って。きたねえ字で。

 とりあえず腹ごしらえしてから事を起こそうと思ったのか、かき混ぜたパック納豆とバナナ、シュークリームが台に放置されていた。焦燥感に耐えられなくなったのか、それを放置して逃げだしたようだ。

 ただ、静かであった。

 おっさんが慌ただしく逃亡した後には、ただ静謐たる現実が横たわって、とかそういう気取った描写が頭に浮かんだが、殺風景な部屋にただ何の音もしないという場面をそんな作家然として抒情をやたら盛り込むのはリアルを描写しているうちに入らないな、と思ったのでしなかった。

 俺は、わざと落ち着き払ったように声を出して、

「そうか。田中さん逃げちゃったのか」

 とだけ言った。

 シュークリームを一つ食ってから、靴を履いて外へ出た。

 外。薄曇りであった。

 田中さんはどこへ逃げたのだろう。俺は考えた。

 海外は無理だとして、どっか遠くの国内、山奥かな。金もちょっとしか持ってないだろうし、都会でホームレスを決意したか。あの有名な樹海、という線もある。それは終着地点だけど。

死なれては気分が悪い。しかし、逃げるということを俺に伝える気力があるということは、まだ生きることを宣言しているようなものではないか。

 いや、借金に追われた人間が、この先どう転ぶかわからんよな。

 なんらかの事件に巻き込まれた際に、真っ先に疑われるのは直前に関与していた俺ということになる。しかし、たぶん大丈夫だろう。きっとそんなことにはならんだろう。

 庭で、無数の猫が蝶を追って遊んでいた。蝶を捕まえる素振りをしてはいるが、それほど全力ではなく、蝶に逃げる猶予を与えて決して本当に捕まえない。なんと心根の優しい猫たちであろうか。

 ふと考えた。

 猫はどうしよう。あ、そうか。猫だから勝手に生きていけるじゃん。

 猫のことはそういう結論にすぐ達した。

 よし、とくりゃあ、ここへはたまに様子を見に来るとして、とりあえず俺は帰ることにする。

 なんだか、急に心が開放的になり、晴れやかになった。

 けれど、まっすぐ帰るのは味気無い。手元にある二千円でつまみとビールを購入しよう。田中さんの門出を祝うというスタンスで、田中さん解放記念としてとりあえず飲むのだ。

 なあに。俺は借金があるわけでもないし。ちょっと滞納した住民税の督促があるだけであるし。田中さんに比したら微妙な向かい風って感じであろう。

 なんにも気にすることはない。金が無くなってもいつか働けばいいんだから。

 そのいつか、は今日とか明日の話ではない。

 労働なんてするか。誰がしてやるものか。まあいつかはするけどね。

 田中さんの土偶のような目と無表情を真似しつつ、それだけでは田中さんに成りきれないと思ったので声も真似て、

「おもしろい」

「ふつうにうまかったけど」

「さらきんでかりたらいいよげんどわくまではひっぱれるから」

 と、それらを唇を尖らして言った。

 初めて挑戦したにしては、えらく似ていると思った。

 そのふざけている感じが面白くて、思わず噴き出し、その場でしばらく笑った。

 ややあって俺は急に真面目な顔を装って、また歩みを始めた。

 つまみとビールを売っていそうな店へ、とりあえず歩いていくのだ。

 またあの、潰れそうな店に行こうか。


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