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電車の中は学生で非常に混み合っていた。
皆、明日のこと、未来のことを話題にしていた。
若さと活気。皆、これから起こること、起こったことに対して色々考え、議論している。そう、これくらいの方が健全でよろしい。
俺は座席の隅に座って腕組みをし、若干うつむき加減になって田中さんという人物を想像してみた。
まず、田中さんというくらいだから人間であることは間違いない。人間であるということは、おそらく家に住んでいるだろう。親父が田中さん、と呼ぶくらいだから、いい年のおっさんであろう。ということは表札くらい出して、立派な家をかまえていることも考えられる。
ということは、どこを探せばいいのかしら。
まずは近所から探してみようか。田中さんがアメリカ在住の可能性もあるし、沖縄に住んでおることも考えられるが、まずは近所。近場から攻めてみよう。
次の駅で降りることにした。
心が軽やかなので、売店で小腹を満たすちょっとしたものでも買おうと思ったがやめた。財布には三千円。口座にはええと、二千円くらいは入っておったかな。
俺は実家の方面へ向かった。
特におもしろくもないような傾斜地の住宅地である。近くには繁盛しているのかしていないのかよくわからんような、あんまりいけてないスーパーがある。
久しぶりに実家の近くへ足を運んだので、新しい看板が立った、あの店の外装が変わった、などちょっぴり新鮮であった。
ちょっぴり新鮮なのはいいが、ちょっぴり憂鬱でもあった。
俺の実家というのは、もう喜村家ではない。つまり、俺のものでもなければ親族のものでもない。今は全然違う人が住んでいる。どんな人間が住んでいるかも分からない。
自分の育った家が、現在は全然違う使われ方をしているというのは複雑な心境だが、俺がそうしたのだから仕方がない。
実家近くまで来たけれども、実家までは行かないことにする。
坂を登りつつ、田中、田中と表札を確認していく。
竹田、今井、林、河原、と田中の文字は見当たらない。
もし、田中さんが借家暮らしをしていて、表札を出していなかったら見つけられないじゃないかという不安が頭をかすめた。
そうなると、田中さんがこの近所にいても捜索は不可能になる。
てことは一向に田中さんが見つからない。一生田中さんが頭から離れない。ひいては一生就職が不可能となる。それはそれでハッピーかもしれんが。
しかし、父が生前に寝言でもらした人物、田中さんくらいはちゃんと見つけてやりたいものだ。見つけてどうするわけでもないが。
けれども表札の出ていない家を、田中さんですか、田中さんですか、と言って訪ね歩くのは気の触れた人間の行いであろう。
色々考えて、結局俺は表札で田中さんを探すことにした。
田中という表札が有っても無くても、実家のひとつ前ぐらいの家で捜索は打ち切ることに決めた。俺は道の真ん中を歩き、両脇の家々の表札を見て歩いた。
十数軒分の表札を見てから、俺は立ち止まった。
なぜかというと、それは頭脳が混乱を始めたのである。
なぜ、俺はこんなことをやっているのか。なぜ、こんなことをしなくてはならんのか。
やってもやらなくてもいいことを、俺は真剣になって行っている。本当にしなくてはいけないことはしないで、一体なぜこんな不毛なことをしているのか。
あ、そうだ。あれに似てるよな。辞書をぱっと開いて、思う通りのページを出すような遊び。
あれだって本当にどうでもいい遊びである。
つまりは遊び。
そうだ。今、俺は遊んでいるのである。そう考えると、脳に答えがすっと染み込んで納得することができた。
人生の遊び。どうでもいいけど、遊びって文字をじっと見てるとなんだか読めなくなるよね。
俺はそういう体で田中さん捜索を真剣に行った。
結局、実家のひとつ前の家まで来ても、田中という表札は見当たらなかった。
違ったか。ここじゃねえのか。
といっても特に落胆は無かった。田中さんが見つかっても見つからなくても良い。また別の場所を探せば良いのだから。
来た道を引き返すのも風情が無いので、脇道に入る。
そこに人がいた。
両脇に髪がひとつかみほど残る程度の禿げたおっさんである。ホースで野菜に水をやっていた。
ふと、だめもとでこの人に尋ねてみるかと思った。
おっさんは割と険しい顔で水やりをしていた。
俺はすみません、と声をかけた。
「えっ」
おっさん、びっくりしたようにこちらを凝視した。
体全体が大きく揺動し、怯えたような目であった。
「田中さんって人、この辺に住んでませんか?」
「田中、なに?」
「名前はわかんないんですけど、とにかく田中さんです」
「あ、あんた、なに? なんの人?」
おっさんは異様に俺を凝視する。
「いえ、ただなんとなく田中さんを探してるんですが」
「俺も一応田中だけど」
「田中さん? じゃあ、俺の親父のこと知ってます?」
親父のことを話しても、田中さんは知らないと答えた。田中さん違いなのだろうか。
「俺は喜村という者なんですが」
「そうなの」
「死んだ親父の寝言で、田中さんという人物が出たので」
「ほうほう」
「これこれこういう訳で、こうこうこういうことなんすよ」
「なるほどねえ」
話しているうちにだんだん打ち解けて来たので、今日は田中さんの家で酒盛りをするはこびとなった。
田中さんは俺のことを何か自分に害をなす者だと思っていたらしい。俺が職の無い社会不適合者である、と身分を明かすと「なんだなんだ。そうかそうか」とかなり安堵した様子で、急にフランクになった。
茶色の、この鉄の板をなんと呼ぶのだろう。とにかく、そういう薄くて安っぽさの滲み出る板が張られた家であった。この辺りの借家全体が、そういう仕様になっている。なんというか、こういう家に住む人は普段どのような気持ちで住んでいるのだろうと思った。
日も暮れて、晩酌の頃合いという時刻になった。
田中さんは俺のような不審者に等しい者を居間に通してくれ、なおかつもてなしてくれた。発泡酒と安価な瓶酒。つまみは煎餅とプロセスチーズとにぼし。つまみの貧しい感じが気になったが、久しぶりにアルコールを摂取できるのだ、文句は言うまい。
「とりあえず、適当につまんでよ。なんも無いけど」
「いやあ。すんません」
という具合に、俺は安酒をやりながらチーズを齧った。
田中さんは胡乱な表情でにぼしを食っている。
腹の痩せた猫が、台の上を気にしているのでにぼしをやった。
顔が仁王のような猫であった。
しかしこの家、猫が多い。白猫と黒猫、それから茶色のまだら模様の猫などがさきほどから出入りしている。
「猫はいるんだよなあ」
俺はひとりごとを言った。親父の言っていた田中さんは、猫を飼っている人だったはずだ。実家に近いことと言い、条件的にはこのおっさんで合致しているような気もするのだが。
あ、そういや、と思いだし、
「あの、猫に梅干しやったりしませんか?」
「うち、梅干し置いてないんだよ」
「あ、そうですか」
ふむ。親父の寝言と食い違う点が多々ある。
このおっさんが、親父の言っていた田中さんなのか、それとも本物の田中さんは別にいるのか。
この際どうでもよろしくってよ。
この方は、正体の知れぬ男にすら酒を振る舞うような大人物なのだ。
まず姿勢が低い。無職で県民税もろくに支払えないような俺を並みの人間として扱ってくれる。俺はそこが気に入った。
もう俺の中ではこのおっさんこそが真実の田中さんなのだ。
「喜村君、家どこなの?」
「丸丸町の罰罰団地です。あ、でも実家はすぐそこなんです。あの赤い屋根の家。もう俺の家じゃないんですけどね」
「ふうん。そうなの」
大した興味は無さそうである。この会話ひとつとっても、俗人ならもっと食いつくはず。田中さんがいかに寛容な人間かが知れるではないか。
頭部も無惨に禿げているし、鼻毛はブラシのごとく出ている。腹は風船のように膨らんでいるが、田中さんの偉大さを知れば容姿など問題ではない。
俺は、このおっさんともっと親しくなりたいと思い始めていた。
そうして俺は数カ月ぶりの酒を美味しく飲んだ。
目の前を、尾の長い不死鳥が飛行していった。桃色の象がきりきり舞いして箪笥の隙間へ抜けて行った。
意識が混濁したのち杜絶した。
「帰る?」
数刻の後、田中さんの声で目が覚めた。心身ともに疲れてたのかな、いつの間にか寝入っていた。
まるで涅槃図のよう。猫が俺を囲んで見ていた。
時刻は十二時を過ぎている。終電には間に合わない。
「なんなら、泊っていってもいいよ」
「いいんすか? ここに寝かしてもらっちゃいますぞ」
俺、まだ酔っている。遠慮というものを全くしないで甘えた。
「うん。そのまま寝ちゃいなさい」
ああ。やはり田中さんは偉大な方だ。俺はこの人に出会えたことを心から喜ぶ。神仏が与えた、俺にとっての最後の救済なのかもしれんな。