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あのですね、田中さんという、あんまり猫に餌をあげない人がいましてね。梅干しをやったんですけどね、そしたら食べました。
という、数年前に仏になった親父の、その寝言。
それが、ずっと頭の中で響いていた。
この怨府で。
まず、人が多い。
成人の男性、成人の女性の成す、人の群れ。
これだけ人が密集しているというのに、まるで活気が無い。
まあそういう場所だからね。
どういう訳あってか職を失い、これから再び職を探すという不安に満ちた場所。
ここは公共職業安定所といって、仕事を探す人が集まる場所なのである。
その目は、あたかも生贄の羊。
俺の目も非常に虚ろ。
なぜなら仕事がないから。仕事が無いと金も無いから、元気も無く、みな消沈している。
救済を待つかのように椅子に座して待つ人々の群れ。
職員がまるでその者を導く救済者のように見える。
自分の選んだ求人票を睨む者。下を向く者。夕暮れを眺めるかのごとく何もせぬ者。
という、その様子を見ただけで俺の心は陰鬱になった。
「ああ。これ無理だわ。無理だわこれ」
と、心の中で俺がぼそっと言った。
何が無理かというと、この腐敗した雰囲気と同化すること、そのことである。
俺という人物は大した資格も有しておらん三十五歳。これまでコンビニのアルバイト、農家の手伝いなどをしてその日暮らしをしていたおっさんである。
そろそろ本腰で職を探さねばと思い、職探しならやっぱ職安だよねとも思った。そんな具合で職安に来たのだった。
来て、はっきり言って打ちのめされた。さっきも思ったけど、無理だと思った。
この群れの中に長時間居続けると、表情といい、雰囲気といい、完全に同化してしまう。
よく見ると、パソコンに向かっている者もいる。
この人たちは何、パソコンでなにやってんの?
俺は思った。
しばらく見るうちに、どうやらパソコンで職業を検索しているのであろうことが分かった。パソコンは今、一席も空いていない。
そっかあ。みんなこうやって条件に合う仕事を探して、そんで職員にその就業先に電話して面接の約束を取り付けてもらうのね。
ということは、ここで最初にすることは応募する就業先を探すこと。だが、俺はやってない。まずはあそこのパソコンに向かって就業先を探さなくてはならない。だが、席は一向に空かない。
そうなるとここにいる理由は無い。
今日は日が悪かった。いっぱいだもんね。無理だもの。
そう思うことにして、逃げるようにして職安から退却したのであった。
職安の外へ飛び出してから、やっぱり戻ろうかなと思った。
やっぱりパソコンが空くまで待ってた方がいいんじゃないの、とりあえず求人欄に目を通して、候補を絞っておくべきじゃないの?
と、まっとうな部分を担当する俺が言った。
確かにそうなのである。
つい先日、督促状という見慣れぬ色の封筒が家に届いた。
至急開封と書いてあるので、やばいと思いつつ開封してみたところ、「あなたは県民税を全然払わないのでこれ以上払う気が無いのならば我々が給料を差し押さえる又は財産をむしることで県民税を払ったことに致します」というようなことが極めて暴力的な文章でしたためてあった。
役所のすることなので、そこまで乱暴なことはしないと思うが。しかし、県民税を支払わず無視し続けていたのは事実だ。
こりゃあ稼がなくちゃあ払えねえよな。
俺のまっとうな部分を担当する俺が言った。
てことはもう就職するしかないのだが、でも、ちょ、ちょっと待ってよ。
あたしね、職安に入った時からずっと田中さんという人物が気になっていたのよ。
あたしというのは俺のことなのだが、言い訳をする際に出現する俺は、あたしなのである。
なぜ親父はあんな寝言を言ったのかしら。田中という人物はどんな人なのかしらね。厳格な親父が寝言を言うのは、今にして思えばかなり珍しいことだったわ。
田中さん、きっと親父と親しい人間だろう。というか、実在する人物だろうか。
田中さんが本当にいて、なんの手がかりもなく探し出せたらそれは素晴らしいことじゃないか。
田中さんのことで頭がいっぱいで就職できそうもないし、ここはひとつ、田中さんを探そうじゃないか。
俺は存在するかどうかも分からん田中さんを探します。
俺はそう固く誓って俺は電車に乗った。
足取りは抜群に軽やかだった。