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四話『恋狐譚』-1

 南風は茲山の麓の丘で三本柳の下に坐して待っていた。

 風の化身である男が坐して動かないからか、小高い丘だというのにあたりに風はなく、柳の葉一枚靡くことはない。ただ、静かな静寂が日の出前の暗闇を満たしていた。

 やがて、朝を告げるように東の空が白み始めたとき、南風は顔をあげた。

「ああ。もう来ないかと思ったぞ」

 急に風が吹いた。砂埃が舞い、柳がざわつく。

 丘を登ってくる影は人間のものであった。人間の夏式が、大きな袋を担いで丘を登ってきた。

 その形貌を見て、南風は肩を落とす。

「おい、そこの人間。俺がこの場に呼んだのはお前ではない。俺は恐ろしき化け狐、化喰を呼んだのだ」

 南風の口ぶりはおどけているようだったが、視線は鋭く夏式を射抜いていた。

「これはつまり、俺は楊華の人間を一人で喰ってしまっていいということだな。お前は何も出来ぬ人間の身で、ただそれを眺めているということだな」

 丘の頂上まで登ってきた夏式を睨みつけ、南風は言う。

「違う、そうではない。まあ聞け」

 対する夏式の態度は、不思議と落ち着いたものであった。昨夜、対峙した時の、苦悩や怒りはなく、ただ、強い決意だけがその顔に現れていた。

「俺は、この一晩、考えてみたのだ。俺が本当に望んだもの。俺が欲したものとは、いったい何であったのか」

 夏式は肩にかけた麻の袋を地面に下ろすと、その横の地面に座り込んだ。

「俺だって、狐であったころはお前と同じように人間を見下していた。俺の腹を満たす餌だと思っていた。そんな俺が、どうしてこんな非力な人の身になってしまったのか」

「俺はお前の戯言を聞くためにここで一晩待っていたわけではない」

 悠々としゃべる夏式に、南風はいら立ちを隠すことなく怒鳴った。次第にあたりの風は強くなり、三本柳はざわざわと音を立てて揺れる。空には西から黒雲が立ち込め始めた。

 しかし夏式は動じない。

 動じず、ただ、自らの思いを口にする。

「俺は香蘭に出会い、欲した。それは美味い餌を喰いたいというのと、さして変わらない欲だと、今になって思うのだ。俺は人の身となることを決め、茲神木によってその願いは叶えられたが、しかし、思えば、香蘭を欲するという欲は狐の身であろうと、満たすことができたのだ。化け狐の力で、俺は娘をさらい、無理やりにでも娶ってしまえばよかった。だが俺はそうしなかった」

「ああ。なるほど、そういうことか」

 南風は夏式の言葉を遮り、口角を上げ、笑った。そして夏式に近づくと、横に置かれた麻布を蹴り飛ばした。

 その麻布の中から妖狐、化喰の首が転がり落ちる。その首の瞳は未だ爛々と、まるで獲物を狙うときのように輝いていた。

「つまりお前はあの娘だけは助けてくれと言っているのだな。この首をかぶり、化喰となってあの街を襲い。そして娘をさらうということか。なるほどそれも一興。よいではないか」

 狐の首を拾い上げると、南風は笑いながらそれを夏式に投げ渡した。

「恐るべき大妖狐、化喰は蘇り、彼の者を打ち取った英雄は逆に喰い尽くされ、復讐の為に楊華の街は滅ぼされる。さらには美しい英雄の妻も奪われてしまう。素晴らしい悲劇ではないか」

 実に愉快だ。と、南風は凄惨に笑う。そんな南風に、夏式は短い溜息を洩らした。

「果たして、俺が人になったばかりの頃ならば、そうなっていたかもしれぬ。あの頃の俺は、香蘭の美しさしか見えていなかった。俺が最も始めに望んだものは、香蘭だけだったのだから。――――だがな、南風よ。俺は知ってしまったのだ。人間たちの美しさを。尊さを。楽しさを。気高さを。優雅さを。聡明さを。面白さを。清らかさを。俺はもう知ってしまっている。だからこそ、俺はここに来た」

 夏式は受け取った首を両手で掲げた。その自らの過去が封じられた獣の首は三年の時が経っても、未だ生きているかのようだった。生きて、人間となった己自身を見下している。目を合わせると、まるでそんな風に見えてきた。

「お前は悲劇だと言ったな。だが、これは喜劇だ。人に憧れた化け物が、それでもなお化け物としての姿を捨てることができなかったという、くだらない喜劇だ。英雄譚にも、辻芝居にも、くだらない落ちが付くだけだ」

 まるで自分に言い聞かせているような声音だった。

「さらばだ、人間の夏式よ。さらばだ、香蘭よ」

 意を決し、夏式は首を被った。瞬間、目の前が暗くなる。が、次の瞬間には赤くなった。

 体が熱い。燃えているようだと化喰は思った。視界は赤と黒の明滅をくりかえし、異常な吐き気に襲われた。昨晩、南風に再開する前に人間として食べた物が、全て吐き出された。口が裂け、耳がとがる。人を食らう体へと作り変えられてゆく。

「おお、大妖狐化喰の復活だ」

 やっと目が見えるようになったとき、その瞳に映ったのは、恐ろしい爪と厚い毛皮に覆われた化け物の腕だった。

 その腕を見て、夏式は歯を噛みしめた。その歯も、今はもう人間のものではなく、恐ろしい牙になっていた。

「久しいな。わが友、化喰よ。再び自らの体を得た気分はどうだ」

 南風の声が耳に入った。ひどく耳障りな声だった。

 まだ、この化け物はわかっていない。

 夏式は、いや、化喰はもう何も言い返さない。もう一言も喋りたくはなかった。喉からは人間のものではありえないうなり声が響いてくる。それがひどく忌まわしかった。

「さあ、あの街を滅ぼそう。二人で人間を食らい尽くすのだ」

 笑いながら近づいてくる南風に、化喰はためらいなく飛びついた。

 そのまま肩に鋭い爪を食いこませ、首元に齧り付く。南風が鋭い悲鳴を上げた。

 いつの間にか空を覆っていた黒雲から、一度に雨粒が落ちてきた。風も強くなり、遠く雷鳴がとどろいた。

「貴様。なにをする。化喰よ。いったい貴様は何をしているのだ」

 喉元に牙が刺さっていながら、南風は叫んだ。だが、それにも化喰は答えない。

 爪で南風の腕を引き裂く。顎に力を掛けて、骨ごと首元を食いちぎった。南風の首が吹き飛ぶ。

「ふざけるな。ふざけるなよ狐。貴様にこの血の毒風が食われるなど、あってはならん」

 首だけになっても、南風は叫んだ。その首が、風に吹かれて空を舞う。

「貴様のことなど、もう知らぬ。俺はあの街の民を食らうぞ。あの街は今日で滅ぶのだ」

 化喰は一言、大きく吠えた。恐ろしい雄叫びだった。そして空に舞う首めがけ、大きく跳躍する。

 その顔には、雨粒に紛れて確かに涙が光っていた。

「ぎゃ」

 南風の悲鳴は短かった。化喰が一口で、その首を飲み込んでしまったからだ。

 風と雨が止まった。地に着いた化喰はその場にうずくまった。嗚咽が漏れるが、その嗚咽も、人間のものではなく、獣のうなり声のそれであった。

 もう人間には戻れない。茲神木はもう二度と人間に戻してはくれないだろう。あの神木はこのことを言っていたのだ。

 しかし、やはり化喰に後悔はなかった。人間となり、香蘭や楊華の民のことを知り、その彼らを守るために再び化け物へと成り落ちる。何を悔やむことがあろうか。俺は街を守ったのだ。次期領主として、当然の振る舞いではないか。

 化喰は泣いた。

 化喰は体を丸め、地に伏せ、ただひたすらに泣いた。

 もう香蘭に会うこともないだろう。そう思うと、落涙を止めることができなかった。

 そしてそのまま、爪で自らの首を引き裂こうとした。忌まわしき獣の声を生む、喉元を引きちぎってやろうとした。

 その時であった。


「夏式様」


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