参話『五年後』-2
香蘭の懐妊が楊華の民に伝えられると、民の祝福は夏式の想像を絶するほどであった。人々は毎日祝福の品を持ってきては、夏式にいつ正式な領主になるのかと尋ねてくる。夏式はそれが嬉しくて、会いに来た一人一人に対面し、礼を述べていた。勿論領主になるべく学ぶことは学び、そして夫として、香蘭のことも常に気に掛けていた。
そんな忙しい日々の中の出来事であった。
楊華に一人の男がやってきた。いつか夏式がこの街にやってきた時と同じように、深い夜、月明かりの薄い日のことだ。南の方からふらりとやってきたその男は、荷をほとんど持たず、さりとて飢えている様にも視えなかった。
南門の門番は当然、その男を引きとめた。
「何者だ。どこから、何の目的でこの街に来た」
矛を手にとり尋ねる門番に、その男は飄々と答えた。
「私は旅の歌人でございます」
歌人を名乗るその男は自らの名を名乗り、楊華の次期領主の妻が子を成したと聞いて、一篇の詩を捧げに来たと言った。丁寧な口調ではあったが、まるで掴みどころのない喋り方だったという。
門番はそんな男を怪しんで、ならば今この場で、即興で一つ詩を詠んでみろと言った。すると、彼は悩むでもなく、これまた飄々と一つの歌を詠んだ。のちにその門番の語るところによると、その詩はまさに石破天驚の出来だったという、しかし不思議なことに、ではどんな詩だったのだといくら聞かれようとも、門番はその詩の内容を思い出すことが出来なかった。
兎にも角にも、美しい詩を歌う歌人が香蘭を祝福するためにわざわざ楊華の町にやってきた。その話を門番から受けた使いの者は、さぞ夏式が喜ぶだろうとその日のうちに夏式にそれを伝えた。しかし夏式はその歌人の話を聞くと、すぐに思案顔になり、こう言った。
「その歌人とは私一人で話し合いたい。謁見の間にその者を入れてくれ。私がその者と話し終わり、出てくるまで、決して誰も部屋に入れないように」
そう強く言い渡して、夏式は足早に謁見の間へ向かった。謁見の間には言い渡した通り、衛兵はおらず、ただ、件の歌人であろう男が一人、床に膝をつき、深く頭を垂れているだけだった。
夏式はその歌人に睨む様な視線を送りながら、ゆっくりと謁見の席に座った。
「顔をあげよ」
一声、夏式は歌人にそう言った。だが、歌人は微動だにせず、まるで隠すようにその顔を伏せたままだった。
しばらく、二人はそうして黙ったままだった。夏式は歌人に射る様な視線を送り、歌人はその視線から逃れるように顔を伏せたままだった。
だが。
ふふふ、と笑声が漏れた。
歌人から、だ。
「ふふふ。まさかお前が俺に向かって傲岸不遜にも顔を上げろなどと。まさか本当に人間となっていたとはな。人食らいの化け狐、化喰よ」
笑いながら顔を上げた歌人はそのまま立ち上がり、夏式に向かって悠然と歩き出した。衛兵がこの場にいれば矛を手に取ってもおかしくない無礼であった。いや、それ以前に、歌人は万民が認める英雄夏式のことを、討伐された化け狐の名で呼んだ。そのことが既に尋常のことではなかった。
「やはり、お前か。今年はこの街を通るのだな」
しかし夏式は焦りを浮かべることなく、椅子に座したまま、歌人を、いや、歌人の姿をしたその者を睨みつけた。
その者の正体は南風であった。より詳しく言うならば、このあたりの、劉聯砂漠に近い地域で血の毒風と呼ばれる病を運ぶ風の物の怪である。
この風、春先に南方から吹き込み、毎年恐ろしいほどの死者を出す。そのため、この病の症状が民にみられると、その町は一カ月の間、何者も立ち寄ってはならず、何者も町から出てはいけないという決まりがある。
毎年、発病する町は異なり、ここ楊華でも、七年前にこの風が吹き、数十人の死者を出した。
そして、その七年前に、この歌人を名乗る風の物の怪と化喰は会っていたのだった。
まだ人喰い狐であったころである。その年の夏、茲山に餌が来ないことを不審に思っていた化喰のもとに、南風はあらわれた。
「おお。お前が麓の街で随分と話題になっている人喰いの化け狐か」そう言って、死の毒風の化身は人喰い狐の塒へ堂々と入り込んできた。「どうだ、人間の味は。俺は舌で直接味わうことをせんのでな。それを聞きに来たのだ」
その時の化喰はまだ化け狐であり、人の愛も、心も、何も知らずに腹の中へ放り込んでいた。だからこそ、この南風に対して鋭い牙をむき出しにして威嚇した。
「お前が俺の食うはずの餌どもを横取りしている盗人か。貴様のせいで、俺はわざわざ隣町の娘を喰いに行かねばならなかった」
「ははは。そうかそうか。いや、すまなかった。しかし俺も物の怪だ。物の怪である以上は人を喰わねばならん。喰わねば死んでしまうし、物の怪とは人を喰らってこその存在なのだから」
恐ろしい形相で威嚇する化喰に対しても、南風はその飄々とした物腰を崩さなかった。
「それで、どうなのだ。人間の味は。肉の味は、血の味はどうなのだ」
そんな南風に、化喰は毒を抜かれた。毒を運ぶ風に毒を抜かれるとはおかしな話だが、この時の化喰は随分とこの妖怪変化のことが気に入ってしまった。
それから、しばらくのあいだ南風は化喰のねぐらに滞在した。化喰は茲山に迷い込んだ人間を化かして騙し、喰らうところを見せてやったし、肉片の一部を少し分けてやった。もっとも、南風はすぐに吐き出してしまったが。
そして春が過ぎ、柳の綿が舞いだした頃に、南風は北へ去っていった。現れたときと同じく、去るときも突然で、そしてその時、南風は言った。
「俺はもう楊華の街を通らないことにしよう。お前の餌を奪いたくはない。たとえひとつの季節がすぎるまでの間だったとしても、お前は確かに俺の友だった」
南風はそう言って、化喰がなにかを言う前に去った。風のように、あとには虚しい静寂が残るだけだった。
そして、それから七年後。南風は狐を狩った英雄の話を耳にし、この街を再び訪れた。
「まさかお前が人間ごときに首を取られるなどということはないと思ったが、まさかもまさか、人間になって人と愛し合っていたとはな。ははは。これは笑わずにはいられまい」
南風は、かつて友だといった者の今のあり方を一笑に付した。悲しみなど見せず、さりとて憤りなど微塵もなく、ただ、哀れなものを見たような、そんな笑い方だった。
夏式はそんな南風こそを哀れだと思った。人の愛を知らず、それを笑うなど、今の夏式には考えられないことであった。
「この街から出て行ってはくれないか。この街の人々は俺の財産だ。何よりも代え難い宝なのだ。お前は俺が飢えぬようにとこの街に来なくなったが、その考えが今でも変わらないのならば、すぐにこの街から出て行ってくれ」
夏式は懇願するように言った。が、南風は笑ったままそれを拒否した。
「確かに俺はもうこの街に来ないとはいったが、しかしそれは友である妖狐、化喰に送った言葉だ。この街の次期領主様である貴様、夏式にそのようなことを言った覚えはない」
そして化喰はもういない。俺は彼の追悼にこの街を訪ねたのだ。と、南風は言った。
「そうだな。俺は我が友である化喰への慰めに、この街の人間どもを喰い尽くしてみよう。もっとも、俺は彼のように口で喰わないが、そう、病によって生気を喰らおう。喰らい尽くそう」
そう、先ずは手始めに、あの美しい孕み女を喰らってやろうか。
夏式はその言葉を聞いて、南風に飛びかかった。彼の体を床に打ち付け、その上に馬乗りになると、噛み付くように顔を南風に寄せ、歯をむき出しにして言った。
「そんなことをしてみろ。俺はお前を喰い尽くす。肉を裂き、骨を砕き、脳漿を啜り、お前という肉体を、存在を、俺の腹の中に封じてやる」
「ははは。お前という奴は何を言い出すかと思えば。俺が先に言ったであろう。お前はもう大妖狐、化喰ではなく、非力な人間の英雄、夏式だと。そんな存在が、俺のような毒の風を喰い尽くすなど。それこそ、妖怪じみた行いではないか。腹を壊しても知らぬぞ」
二人はしばらくそうして睨み合っていたが、南風は突然、思い出したように言った。
「おい。領主夏式よ。お前、まだ妖狐の首を持っておるだろう。箱に入れ、宝物庫にしまっておるだろう。人間というものは兎角自らの手柄を残したがるからな」
我々は残すくらいなら喰い尽くすが。お前も以前はそうだった。と南風は笑う。
「ならばお前よ、その首を冠れ。あの偉大なる大妖狐の首を再びその身に宿すのだ。そうすれば、お前は転生し再誕し、力を取り戻すことができるであろう。あの時の、人を殺し喰らう楽しみを思い出せるだろう」
「ふざけるな。俺はもう二度と、そのような愚かな行いをしないと誓ったのだ」
夏式は腰に下げた儀礼用の短刀を引き抜き、有無を言わさず南風の腹に突き刺した。が、南風は少し唸り声をあげただけで、その身から血は流れず、まして息絶えることはなかった。
「ああ。この様な鈍らの刃、化喰の牙には遠く及ばない。これが今のお前なのか」
南風は自らの腹に突き刺さった短刀をあろうことか両手で握り、引き抜いた。そしてそのまま夏式を突き飛ばすと、逆に短刀を夏式の首に添え、体を押さえつけた。
「今すぐにでもこの羸弱なお前を憑り殺してやりたいところだが。しかし、寛大な俺は猶予を与えてやる。茲山の麓に大きな丘があるだろう。柳の三本生えたあの丘だ。俺はそこで明日の日が昇るまで待ってやろう。お前が化喰の首を被り、かつての姿を取り戻し、人を喰らう喜びを思い出せたならば、俺のもとに来い。そうすれば、二人でこの街を喰い尽くそう。そうだな。あるいは、その時に至ってもお前がこの街を守りたいというのであれば、友人として化喰の頼みを聞いてやらんでもない」
南風は夏式の首から刃を下げると、立ち上がった。そして短刀を握っていない方の腕を空へと掲げた。
すると、部屋の窓がひとりでに開き、そこから生暖かい強い風が吹き込んできた。夏式はとっさに目を覆った。そして風がやむころには、南風の姿は跡形もなかった。ただ、夏式の短刀が床に突き刺さっているだけであった。