参話『五年後』-1
金兎玉烏は怱々に過ぎゆき、茲山の化け狐が恐れられたのは五年前となった。その化物を退治した男の英雄譚は親が子供らに語って聞かせる昔話となり、英雄夏式の名は楊華の、あるいは丹国の人々全ての知るところとなった。
その昔話の主人公として語られる英雄は、その日の夜、城内の階段を慌ただしく上っていた。遠出の先から早馬を走らせ慌てて帰ってきたものだから着物は崩れ、息も荒い。だが、夏式は一行に構わず走っていた。向かう先は香蘭の寝室。何もせずに去ったあの日の夜から、幾度も訪れた場所である。
その扉の前まで来て夏式はやっと一呼吸ついた。そして意を決し、ゆっくりと扉を開けた。
その扉はいつもよりも重たく、扉の向こうの部屋の明かりはいつもよりも輝いて見えた。
「ああ、夏式様」
扉を開けた夏式を見て声を挙げたのは、最愛の妻、香蘭であった。寝台の上で仰向けに横たわる彼女は、美しい笑顔で夫を迎えた。それは決して五年前には見せることのなかった、彼女の本当の笑顔であった。
彼女の周りには侍女が二人と、城主お抱えの医師が一人、これも笑顔で夏式を迎えた。
「本当なのか」
夏式が香蘭の寝台に駆け寄って、医師に短く尋ねると、医師は一礼し、言った。
「ええ。間違いございません。懐妊されております」
ああ。と。夏式の口から息が漏れた。体から力が抜け、寝台に凭れ掛かった。
あの夜、何もすることなくこの部屋を出てから、五年。様々な出来事があった。
まず、香蘭の父である領主が死んだ。
葬儀は盛大に執り行われ、楊華の街の皆が一様に涙した。夏式も泣き、普段は気丈な態度を崩さない香蘭も泣いた。
今は丹国の都から派遣された臨時の領主が街の政治を取り行っているが、いずれは旧領主の娘婿である夏式がその任につくであろう。今は臨時領主のそばでひたすらに政を学び、楊華の民衆もそれを待ってくれている。
この街に来たあの時、前領主の前で、地位も富も名誉もいらない、ただ香蘭が欲しいと言ったはずの夏式は、そのすべてを得ることになってしまった。しかし、今の夏式にはその全てを背負う覚悟がある。
そのために、今日も街の外にある開墾地を視察に回っているところであった。農民たちの田植えを見分していたとき、楊華からの使者の言伝で香蘭の妊娠を知り、慌てて一人、早馬を飛ばしてきた。
「夏式さま、ここに」
香蘭は両手で夫の手を取り、自らの腹の上へその手を置いた。
暖かい妻の肌の感触と、その下に確かに感じる生命の鼓動。
香蘭は何も言わなかった。夏式は何も口にすることができなかった。侍女二人と医師も、少し離れた場所から何も言わずに二人を見ていた。
幸せだった。もはや夏式は自分が狐であった過去など忘れていた。それどころか、自分は本当に化け狐を討った英雄のような気すらしていた。なにせ楊華の民は皆が夏式をたたえ、夏式が領主になるのを心待ちにしているのだ。誰がそんな人間を過去に街の人間を喰い荒した化け狐だと思うのだろう。そんなこと、誰ひとり、あるいは本人でさえも思いはしまい。
「夏式さま、これからもこの街と私を守ってくださいね」
愛する妻の腹に手を置いて幸福を噛みしめているこの夏式という男は、この瞬間、精神も肉体も、魂でさえも人間と相違なかった。ただただ、この瞬間だけは人間であった。
そう、五年という月日の中で、もう夏式は忘れてしまっていた。
あの神木の警告を。