弐話『夏式と香蘭』-4
夕刻になって、領主の城では宴会が催された。
人々は酒を酌み交わし、楽団は祝福の調べを奏で、踊り子は舞台を舞った。
そのどれもが、化狐だった夏式の目を奪った。
何かの催しが始まるたびに夏式はそれを真剣に、注意深く鑑賞し、一つ一つが終わるたびに大きく手を打って感動をあらわにした。狐であった夏式にとって人間の娯楽は興味深く、また非常に面白いものであった。しかし、夏式はその興奮の奥底に、そんな人間を喰らってきた自分の浅ましさを感じた。
ああ、本当に自分は愚かであった。
狐は人間と触れ合い幾度も感じたことを、再び思い、心の中で嘆いた。だが、狐はすぐにそのことを忘れた。それほどに人間の催しは狐にとって面白く、目を、心を奪うものであった。
宴の席で催された物の中で、特に夏式が心ひかれたものが、遠く都からやって来た旅の一座が演じた演劇である。
演目は剣の道を究めた男と盲の老婆との面白おかしい喜劇であったが、夏式はそれを真剣に、食い入る様に鑑賞し、終劇するやいなや立ち上がり、手を打ち、感動を表した。
そんな夏式に興味を持ったのか、公演の後に演劇一座の座長が声を掛けてきた。どうやら新しい演目の内容を作る際に参考にするらしい。座長は化け狐との戦いの様子を事細かに尋ね、夏式も時に恐ろしく時に滑稽にその様子を語って見せた。
数か月もすれば、脚色され、化け狐を倒す英雄の演目が遠いどこかの街で開かれるのだろう。そのこと自体が、夏式にとってはとても興味深く、そして光栄に思えた。
座長も、これは丹国で末永く演じられる名演目になるだろうと、それを一番に演じられるのが自分の一座であることを誇りに思うと、そう夏式に話してくれた。
そんな、夏式と香蘭の婚姻の宴は日が変わる頃に終わった。最後まで残っていた者達は酒に酔い、その場で眠り呆ける者もいた。早々に宴の席を抜けた香蘭は、城の上階にある自室に戻り、椅子に座って、目を閉じ、何もせずにただただ待っていた。
開け放った窓から入る半月の明かりを受けるその姿は美しく、それこそ人喰い狐が一目で恋に落ちるほどであった。
その月明かりを受ける香蘭の部屋の扉が、外からゆっくりと開かれる。
「香蘭よ」
そこに立っていたのは夏式であった。
香蘭は夏式の姿を見ると、椅子から立ち上がった。寝間着の薄い布が、ゆったりと香蘭の動きに合わせて揺れる。その姿に、夏式は再び魅せられた。
夏式は一歩、部屋へ入った。部屋の中は閑散としていて、椅子と小さな机が一組、あとは書棚と寝具があるだけであった。
「香蘭よ……」
「夏式さま」
夏式がもう一度声を掛けると、香蘭はそれを遮るように口を開いた。
「七日。後、七日待ってほしいのです」
――――夏式は一瞬、香蘭の真意がわからなかった。
当然のこと、夏式はこの部屋に香蘭と交わるために来た。それは婚礼の式を行った日の夜としては当たり前のことであったし、式の前に領主からはこの部屋の場所を教えられていた。それはつまりそういうことである。
ならば、今更この娘は何を言っているのか。
夏式の視線が、自らを射止める様な香蘭の視線と重なり、その瞳の力強さを見た時にやっと、夏式は思い至った。
七日後、それは空に浮かぶ月が完全な形となる時。満月の月明かりの下では物の怪はその化けの皮をはがされ、真の姿に戻る。香蘭はそれを待ってほしいと言ったのだ。
「ああ、香蘭よ。お前は……」
自らの妻と成る女性に化け物扱いされたことに気が付いた夏式は、怒るでもなく悲しむでもなく、――――ただただ素直に感心した。
この香蘭という娘は、まだ俺の正体を疑っているのだ。この街の民も、あの演劇の一座も、あるいは領主でさえも、もはや俺を英雄と信じて疑わない。しかし香蘭は、この賢しい娘だけは違った。我が妻と成るこの人間だけはまだ突然現れた英雄である俺を疑っているのだ。
「おまえはなんと賢き娘なのだ。俺は化け狐の化喰の首を獲った英雄だと言うのに。ああ、お前は本当のところ、俺の様な只の英雄の妻と成るべき人間ではないのかもしれぬ。――――わかった。俺は七日と言わず、お前が俺を英雄として認めてくれるまで、夫として認めてくれるまで、お前に手を出さないと誓おう。お前のその端倪すべからざる二つの瞳を持って、俺がいかなる存在か、しかと見極めるがいい」
夏式は腹を抱えるほどに笑いながらそう言うと、香蘭に背を向け、何の未練もなく、あるいは奇妙な満足感すら抱いて部屋を去っていった。
部屋に残る香蘭は、少し驚いたようにその背中が扉の向こうへ行くのを見ると、誰もいない部屋で少し笑った。
「私の瞳の見定める所によると、貴方もただの英雄ではないのかもしれませんよ」
香蘭はそう呟きながら寝間着の裾を翻して一人、空に浮かぶ欠けた月を眺めた。
「存外、私が貴方を愛することが出来るようになるまで、それほど時間はかからないのかもしれません」