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弐話『夏式と香蘭』-3

 婚礼の式は翌日、朝から始められた。

 日が東の内は、二人が乗る軺車の先頭に中の肉をくり抜いた化喰の首の皮を飾り、楽団や官女などを率いて街に繰り出した。様々な商店が軒を連ねる大通りでは、果物や花や丹国では珍しい葡萄の美酒が祝いの品として二人に送られ、式の一団からは、代わりに同じく丹国ではあまり見ない切子細工の硝子の器が下賜された。

 楊華の民は一目英雄の顔を見ようと、式の一団に近づき、夏式と香蘭に祝福を投げかけた。

 その祝福に片手を上げで答えながら、夏式は自分と同じように民衆に手を振る香蘭の姿を盗み見た。香蘭は七色の布を使った美しい花嫁衣裳を身にまとい、人々の声に笑顔で答えていた。

 そんな香蘭を見て、夏式は思う。

 ――――ああ、俺はこの娘をついに手に入れたのだ。そして楊華の民に迎えられ、祝福されている。それはなんという幸せだろう。人の肉を喰らい腹を満たすことにもう喜びは見出せないだろう。あるいは、俺は夢の中にいるのかもしれない。俺の体は等の昔にあの神木の前で朽ち果て、魂だけが幸せな夢を見て彷徨っているのかもしれない。

 人となった狐は自らの幸福に打ち震えた。今まで自らの力を誇示し、人を喰らい、牙を血で染めることしか知らなかった化け物は、人を愛することを知り、そして人の温かさを知った。

 ひと時。化け狐は、彼が見下ろす民衆達の中に、自分が喰らった者の親族がいることを忘れた。

 だが、しばらくののち、夏式の視線は、隣に座る香蘭から、車の先頭に飾られた狐の首へ移った。

 俺は決してこの力を再び手に入れようとは思わないだろう。脆弱な人間として生きることが、何よりも素晴らしいことであると気が付いたのだ。

「香蘭よ」

 夏式は再び視線を戻し、自らの妻となった娘に語りかけた。

「はい。なんでしょう。夏式様」

 香蘭は民衆に向けていた笑顔のまま、しかし声と視線は不思議と隙のない鋭いもので、夏式の声に応えた。

 その香蘭の纏う雰囲気に夏式の表情は少しこわばる。香蘭の態度は、この婚約に本心から納得しているわけではないことを示していた。

「私との婚姻が不服か、香蘭よ」

「いいえ。わたくしは領主の娘。父の意向に反対する力は持ち合わせておりません。夏式様との婚約は父が決めたことです。ならば、わたくしの不平不満などあってないような物でございましょう」

 香蘭は夏式に対してひどく悲しみを帯びた顔でそう答えるが、すぐに普段通りの微笑みをその顔に浮かべ、婚約を祝う市民たちに向けて手を振った。

 夏式はそんな香蘭に、一つ、間を置くと、恐れることなく自らの思いを口にした。

「私はお前のことを愛している。そして、お前の父上であるところの楊華の領主も、お前のことを愛しているだろう。お前が一言、この婚姻を不服だと伝えれば、領主はすぐにでもこの式をやめさせるだろう。私にあそこにある首を返し、この街から出て行けと言い渡すだろう」

 それは、初めての面会で領主に香蘭が欲しいと言った時に感じた、夏式の直観であった。あの時の領主は、自分の愛娘を嫁に出すことに激しい抵抗を感じていたように夏式の目に映ったし、事実、そうであった。

 二人を乗せた軺車は、大通りをまっすぐ北に抜け、領主の城へと戻る道を進んでいた。

 その周りには、未だに民衆が集まり、祝福の唄を歌ったり、踊ったり。もう誰が式のための一団で、誰が民衆なのかわからない状態になっていた。

 その賑やかな中で、式の中心である二人の間には奇妙な空気が流れている。夏式は香蘭に無言で視線を送り続け、香蘭は逆に夏式から視線をそらす様に、通りで祝杯を挙げる民衆へ美しい笑顔を向けている。

「……香蘭」「夏式様」

 沈黙に耐えきれなくなった夏式が香蘭の背中に声を掛けようとすると、それを遮るように香蘭は口を開いた。夏式の顔は見ないままで、民衆に笑顔を向けている香蘭は、それでも鋭い声で言った。

「わたくしは夏式様を愛するよう努力いたします。今はまだ、あなたを愛しているとはとても言えない。あなたがわたくしに向ける愛の重さを、わたくしは受け止め、返すことが、今はまだできない。……ですが、いずれわたくしはあなたを愛しましょう。そうなるように努力いたしましょう」

 香蘭は、領主の娘はそういった。今、この婚約に湧く民衆を見ながら。

 この場で香蘭が婚約を破棄してしまったら、この民衆は何を思うだろう。

 夏式は時間をかけて、その考えにたどりつき、思った。

 ああ。この我が妻となる人間は一人の女として以前に、領主の娘として考え、行動している。たとえ自らの納得がなくとも、領主の娘として振る舞うことを優先すれば、自らの納得など意味がないのだ。なんと、なんと人の世の煩わしい事よ。……ならば俺が夏式として、領主の娘、香蘭の夫としてできる事、すべき事とはどういうことなのか。

「香蘭よ……」

 長い時間をかけて、夏式は再び香蘭に声を掛けた。

「お前が領主の娘として、私を愛する努力をするというのならば、私はお前の夫として、お前に愛される努力をしよう。いつかお互いが、お互いを愛することができるように」

 夏式の言葉は民衆の声援に飲まれ届かなかったのか、香蘭はもう言葉を返すことはなかった。


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