弐話『夏式と香蘭』-2
そこまで脅しておいて、夏式がいざ楊華の領主と対面したのは翌日の朝になってからだった。一晩、街の宿に泊まり、次の日の朝早くに領主の館へ呼ばれた夏式は、しかし、その扱いに不平不満を言うことはなく、化喰の首を収めた麻袋を片手に城へ赴き、今は領主の前に平伏している。
「……では、私にその化喰の首を見せてみよ」
楊華の領主は白い髭を蓄えた男だった。夏式は知らぬことだが、都の官職を担っていたが、権力争いに負け、この西端の街へ左遷されたのだという。実年齢はそれほどでもないはずだが、頭に見える白髪と深く刻まれた顔の皺によって、疲れ果てた老人のようにも見えた。
「はい」
夏式は麻袋からゆっくりと首を取り出した。両腕で持って、首を高々と掲げると、周りに控えていた衛兵達がざわつき、領主も目を見開いた。
「これが、私が茲山の滝の辺で戦い、切り落とした化喰という獣の首でございます。三日三晩の戦いは我が剣を根元から折り、しかしその折れた剣を使い、油断した狐めの首を切り裂きました」
首を掲げたまま、恐ろしい武勇を語る夏式。領主はそれを聴き、一つ頷くと夏式に問いを投げかけた。
「お前の武勇はわかった。では、夏式よ。その武勇と首を持って私に何を望む」
領主は考え、さらに問う。
「夏式よ。おまえが欲しいのは銀か。武勇を称える銀の山が欲しいのか」
楊華の街の周囲に銀山はない。だが、遠い西国との交易の玄関口である楊華には、丹国には珍しい品々がそろい、それらによる富も集まってくる。ゆえに楊華の領主は、地方の領主としては十分なほどの財を溜め込んでいるのであった。
しかし、その領主の問いに夏式は首を振った。
「いいえ、私はそんなものが欲しいのではありません」
ならばと、領主は再び考え、そして問う。
「夏式よ。おまえが欲しいのは地位か。この街の武官として取り立てようか」
確かに、人ならざる化け狐の首を取ったという腕ならば、武官での地位は約束されるだろう。国が保有する稽古場を一つ、任されるということもあるかもしれない。そうなれば自然、門下には多くの武を極める者が集まり、夏式に教えを乞うだろう。
しかし、その問いに夏式は首を振った。
「いいえ、私は財や地位には頓着せぬのです」
領主は再び考え、そして問う。
「ならばもしや、お前は化喰の首を獲った、その栄光だけで十分だというのか」
いずれ、夏式を名乗るこの男の武勇は丹国の中で語られ、広まってゆくだろう。それは英雄譚であり、夏式を称える歌となるだろう。その栄光はどのような財、どのような地位をもってしても得ることが敵わない物だろう。
しかし、その問いに夏式は首を振った。
「いいえ、恐れ多くも、私は領主様に褒美を賜りたく思います」
その答えに、領主はとうとう頭を抱えて、夏式に直接問うた。
「ならば、お前が欲しい物はなんだ。私は出来うる限りお前に褒美を取らせよう」
「はい。私は」
夏式はそこで一息間を置くと、顔を上げ、領主の瞳の孔を真っ直ぐに射る視線でもって、一度にまくし立てた。
「私は貴方の娘。香蘭をいただきたいのです。私がこの首を差し出して望むのは、あの美しい娘との婚姻でございます」
夏式のその言葉に、周りに控えていた衛兵達はざわめいた。
「あの娘か」「あの美しい」「領主様のお嬢様を……」「あの娘を娶りたいと言うか」
衛兵達のざわめきの中で、しかし領主は口を真一文に結び直ぐに答えを返さなかった。領主にとって、香蘭は一人娘であった。それこそ、金銀武勲なにもかもを凌ぐ大切で手放しがたいものであったのだ。
しばらくは衛兵のざわめきだけが謁見の間を支配した。領主と夏式は黙ったままお互いを睨みつけるように視線を合わせていたが、しかし、ざわめきが小さくなり、やがて皆が一様に口をつぐんだ頃に、領主が観念したというように視線をそらし、口を開いた。
「夏式よ。狐の首を取った英雄よ。お前がこのことを知っているかどうか、私は知らないが、私は都にいたことがある。そしてそこで多くのものを失った。地位も威厳も、妻すらもだ。いま、私に残っているものは、この街の民たちと、あの一人娘だけなのだ。お前はその娘を私から奪っていくというのか」
夏式はまだその目の先を動かすことなく、答えた。
「はい。私はあの娘が欲しい。香蘭という名の、あの娘でございます。私はあなたに大切なものを差し出せと申しているのでしょう。しかし、私はそのためにこの首を落としこの場所まで持ってきたのです。どうか。あの娘、香蘭を私にいただきたい」
そして夏式は再び頭を伏した。四肢を床に投げ出し、頭を低くし、身を縮めるその姿は、人に懇願する姿勢というよりも、むしろ獲物にとびかかる寸前の獣の姿に似ていたが、その場で何かを発言するものはいなかった。
ざわめきの後の、静まりかえった広間で、領主は夏式を眺めつつ、口を引き結んで思案する。
自らの娘を手放すか、否か。本来ならばすぐにでもこの夏式という男を楊華の街から放り出したいところではある。
しかし、夏式は悪狐の首を取った街の英雄。素性の知れない男ではあるが、既に民衆の中には彼の噂をする者もいる。それならば、英雄と自分の娘の婚姻は、むしろ喜ぶべきことなのではないか。
領主は悩みぬいた末、夏式の申し出を受けることにした。