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壱話『出会い』-2

 ところでこの茲山。化喰の出る前から丹国有数の神木を有する神体山として有名であった。山の頂上に燦然とそそり立つ神木、高名な僧によって長々しい名前を付けられているが、楊華の人間からは親しみを込めて茲神木と呼ばれるその大樹の前に悩める者が立つと、その悩みに一つの解決を齎すといわれていた。

 さあ、この化喰、まさに今、悩みを持つ者である。人を喰らっていた時には決して近づくことのなかったその神木へ、化食は身を低くしながら駆け寄った。

「ああ、偉大な神木よ。山を統べる大樹の長よ。この悩める醜き狐に、どうか救いを与えてくれ。俺はこの身を捨てる。俺にもう一度、人間として彼女に会わせてくれ」

 地に平伏し、情けなく縋る化喰の前で、神木はただ聳え立つのみであった。しかし、化喰は諦めることがなかった。狐はその場で更に七日七晩待ち続けた。地に伏したまま砂を噛み続けた。

 そして七日目の晩、茲神木の前には毎日人を喰らっていた恐ろしい容貌の妖狐はどこにもいなかった。痩せ衰え衰弱し、死の淵でそれでもなお祈り続ける狐が一匹、哀れに倒れ伏しているだけであった。

 そんな化喰の姿を見て、茲神木もとうとう哀れに思ったのか、日の変わろうかという時刻、一寸先も見えないような闇の中、不意に化喰が伏せていた地面が光り輝いた。驚いた化喰が最後に残った力で首を上げると、化喰のいる地面だけでなく、そこら一体が金色の光に包まれていた。そして見上げると、遠く東の都にある帝の城に彫られた金の龍の如く、茲神木の根から茎から葉から全てが光り輝いていた。

「おお。茲神木よ。この狐の願いを聞き入れてくれるのか」

 化喰のその言葉が木々の間を木霊する。そしてその木霊に答えるように、茲神木が低く厳しい声を発した。

「化け狐の化喰。貴様が人に成ることを望むなら、貴様が彼の女子と愛を語らうことを望むなら、この神木は手を貸そう。貴様の想いの先にいる女は、楊華の町の領主の娘で、名を香蘭という。貴様はこの神木の力で人の身となり、化物であった貴様の首を持って町に下るがよい。さすれば、領主は化け狐を討ち取った栄光を称え、娘を差し出してくるだろう」

 その言葉に、化喰は喜んだ。化物だった俺の首などいくらでもくれてやろう。それで我が身が人と成り、彼女、香蘭と生きてゆけるのならば。と、強く思った。

 しかし、茲神木の言霊はそこで途切れることはなかった。

「だが、貴様は既に人を幾十も喰らっておる。天網恢々疎にして洩らさず。恐ろしくも浅ましい真似をした貴様の生きる道は天の定めるところによって閉じられ、その先には闇しか待ってはいない。人を喰らった身で人と成ることを望む矛盾は、貴様を死よりも深い悲哀へ誘うだろう。今までの様になにも考えず、愚かに人を喰らって生きるか、あるいはこの場で灰の骸となり朽ち果てるほうが、貴様にとっては良い結末となるかもしれぬ。それでも人となり、彼の女子の傍で生きたいと言うか」

 その神木の問いかけに、化喰は悩むことなく答えた。

「ああ。たとえこの身が裂かれ、皮が剥がれ、目が抉られようと、俺はこの日、この選択を決して後悔しないだろう。彼女、香蘭と一緒に生きることが出来たのならば、俺はどんな結末すら受け入れよう」

 この時、化喰にとって自らの運命の末路などどうでもよかった。決して後悔しないだろうという言葉も嘘ではない。

 ただ一度会っただけの香蘭という女と、もう一度会い、この心の内に積もり積もった思いを届けたい。そしてあわよくば、彼女と幸せになりたい。

 腹の中を人の肉で満たしていたはずの化物は、純粋な想いでそう願った。

「ならば貴様の望みを叶えよう」

 茲神木がその言葉を発すると同時に、あたりの木々がざわつき始める。あたりに満ち満ちていた光が化喰の体を包みこむ。不思議と暖かい空気の中で、狐は瞼をおろし、一筋、頬に涙粒を落とした。

「これで、俺は、人に成れる」

 狐が流した落涙の一粒が地に落ちた時、化喰は奇妙な感覚を得た。まるで傷口から瘡蓋が剥がれ落ちる様に、自らの頭部が首から剥がれる様な、なんとも不思議な感覚だった。

 しばらくたって化喰はゆっくりと眼を開けた。周囲は既に光を失い、神木も風に吹かれるだけで何も言わない。化喰は恐るおそる自らの身体を見下ろした。

 毛深く太く人間を引き裂く恐ろしい爪を備えていた腕は、弱々しいながらも白く長く美しい人間の腕へと変わり、針の様に鋭い毛皮を纏っていた表皮は、上等な絹の衣を纏った毛の薄い人間の肌と成っていた。

 狐はその弱々しい腕を自らの顔に当てた。

 口も、鼻も、眼も、耳も、頭髪も。全てが人間の物へと変わっていた。

 狐。いや、狐であった人間は、あたりを見渡した。そこらじゅうに充ちていた光は既になく、茲神木は喋らぬ大樹となり、ただただ夏の湿気を含んだ生ぬるい夜風が草木をざわめかすだけであった。

 しかし、その静かな夜の山にはそぐわないものが一つ、野草の上に転げていた。人間となったその者はそれを拾い上げると、ゆっくりと山を降りて行った。


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