四話『恋狐譚』-2
「夏式様」
自らを呼ぶその声を、化喰は幻聴だと思った。
幻聴だと思いたかった。
あるいは、やはり南風を食らった毒で自分が死にかけていて、死の寸前の、記憶の幻なのだろうと思い込んだ。
「夏式様」
二度目ははっきりと聞こえた。たとえ化け物となった今の化喰の耳でも聞き分けられる、知性に富み、美しい声。
恐る恐る、顔を上げる。
その先に、娘は立っていた。何よりも大切で、愛おしい存在。
「あなたが、夏式様なのでしょう」
香蘭だった。薄い部屋着に、これも薄い表着を羽織っただけの格好で、彼女はそこにいた。髪からは雨粒が垂れ、息は随分と荒かったが、その瞳は力強かった。
「なぜだ」
自らの声は、南風よりもはるかに耳障りだった。香蘭の声とは比べようもない。
「あなた様が早朝に屋敷から出てゆくのが見えたもので。それだけならまだしも、妖狐の首を担がれて。だから追いかけてきたのです」
妖狐の首。
いまの俺の首だ。いまの俺の姿だ。
夏式はまた目を伏せた。とても、香蘭の力強い瞳と目を合わせていられなかった。
「すまない。俺はおまえを、楊華の民をだましていた。俺の正体は妖狐化喰だ。俺は英雄などではなかったのだ。愚かで、醜く、浅ましい存在だ。俺は人を食ったことがある。それも幾人も、幾十人も、あるいは、幾百人も。俺は楊華の民、全てに憎まれている存在だ。おまえも俺を憎んでくれ」
砂を噛みしめるように深く頭を垂れ、呪詛のように呟かれる化喰の独白を、香蘭は何も言わずに聞いた。
「ただ、ただ一つ。おまえの夫として、人間の夏式として一つだけお前に頼めるのならば、おまえの、おまえと俺の子を、産み、育ててくれ。それはいまの俺ではない。人間の夏式がつくった子だ。いま、化け物の俺が望めるとすれば、それだけだ」
化喰はそこまで言うと、立ち上がった。
「夏式様」
「ただ。ただ、それは俺の願望だ。欲だ」
香蘭の言葉を、化喰は遮る。
化喰は香蘭の言葉を聞きたくなかった。何を言われるのか、恐ろしかった。否定されることが当たり前だと思ってはいる。恨み言を、怨嗟の言葉をぶつけられるのが当然だと思ってはいる。だが、化喰はそれを恐れた。
「俺の欲は、おまえにとって憎しみの対象でしかないのかもしれない。俺はそれを知りたくはない。だが、もしそうなのであれば、茲山の西南の草原に咲く、紫の花を煎じて飲むといい。あれは孕み子堕ろしの花だ」
「夏式様」
「さらばだ、香蘭」
化喰は吠えた。その慟哭は、長く、遠く、茲山から楊華の街にまで響きわたった。そしてその余韻が消えるころには、化喰はもう走り去っていた。香蘭がはっとして目を向けると、丘の向こうに茲山へと走り去ってゆく獣の影が見える。
「夏式様、待ってください」
香蘭は追いかけようとして、踏み止まった。背後からたくさんの足音が聞こえたからだ。
どうも夏式と香蘭の不在に気が付いた街の者たちが追いかけてきたようだ。誰かが香蘭の姿を見つけて、声をあげる。
その声に振り向く前に、香蘭は茲山に向けて、そこにいる哀れな狐に向けて呟いた。
「夏式様。わたくしは、未だにあなたを愛しております」
その小さな声は、風のない澄んだ山の空気に乗って、茲山へと流れて行った。