壱話『出会い』-1
その昔、丹国の楊華という街の北の外れに、茲山という山があった。
春には全てが草花に満ち、夏には川が澄み渡り、秋には木々が紅く色付き、冬には峰が真っ白に染まる。そんな美しい山だった。
しかし、数年前からこの山紫水明の地に一匹の化け狐が住み着き、楊華に住む人々に恐れられていた。曰く、その妖狐は山に栗などを取りに来た女子の前に大層な美男の姿で現れ、山の奥へと誘ってゆく。そして、その美貌に引かれたが最期、女は狐に喰われてしまうという話だ。
故に、その恐ろしき狐に付けられた名は、化喰。人を化かして人を喰らうその狐の名であった。
幾人かの勇猛な男たちがこの狐を退治しようと挑んだが、この狐、ただ化かすだけではなく、何とも恐ろしい牙と爪を持って、挑んできた男どもを皆喰い殺してしまったらしい。誰一人として茲山から下りてくる者はいなかった。
その化喰。あるとき餌となる人間を探し、山中を彷徨っていたところ、一人の女を見つけた。後姿は月に咲く高嶺の花の如く美しい女であったが、化喰はそれを見ても、旨そうな女だとしか思わなかった。その女の背後に音もなくすり寄り、息をするように美男に化けると、その露の輝く茎のような肩に手を置いた。
「そこの山行く乙女子よ。栗を取りに来たのなら、私がご案内しましょう。山の奥には栗の木も、花咲く丘も、鳥の声も、全ての物がそろいましょう」
その化喰の言葉に女は振り返る。ゆっくりと、艶やかな濡れ羽色の髪を靡かせて。
この出会いが化喰の天命を決める出会いであった。
「おお、なんという」
化喰は息を呑み、目を見開いた。
その高嶺の花の容貌は、後姿など目もくれずその時まで喰らうことしか考えのなかった化喰の心を、大きく揺り動かしてしまうものであった。それはまるで解語の花。いや、花の美しさなど知るようもない化喰をして美しいと思わせるのだから、花という表現では表せない。それこそ丹国の美女の全てが霞む様な美しさ。都の辻芝居の役者共が好んで演じる、丹国の歴史に動乱を齎してきたとされる妃たちをも凌ぐ美しさであった。
まるで天の衣を纏ったかのようなその姿に、化喰の瞳は逸らす事が許されず、心は容易く奪い去られてしまった。今まで人を見れば喰らうことしか思い至らなかった化物は、そのとき自身の身の内に沸いた想いに戸惑い、驚いた。
――――これが、有象無象の力なき人間共が恋や愛などと呼ぶ物なのだろうか。
そんな化喰を前にして、その女は口を開いた。
「あら、綺麗なお人。しかしわたくしは日の落ちる前に帰らなければなりません。この山の恐ろしい妖狐が腹の音に従って、わたくしを喰らってしまう前に。彼の怪は満月の月明かりの下では正体を現すと言いますから、次に誘われるときはその時をお選びになさってください」
女の言は知性に溢れ、その声は美しく、それがまた、化喰の心に波紋を広げる。
その瞬間、化喰は自らの身を恥じた。
今まで俺は化物の身体ゆえ、行動も化物として振舞ってきた。人を見れば殺し、腹が空けば喰らい、悪逆非道の限りを尽くしてきた。しかしその獲物であった人は、俺がそんな醜く浅はかな行いを続けている間に、愛という美しい想いを育んでいたのだ。ああ、もし俺のこの心に沸いた気持ちが真に愛なのだとすれば、俺はどれだけ愚かなことをしていたのだろう。この尊い感情を、俺は全く感じることもなく平然と喰らってきたのだ。俺は愚かしい存在であった。人が俺を人喰らいの化物と蔑むのも当然なのだ。
化喰は懊悩し、その場は女の言葉に返答もせずに逃げるように森の中へ帰っていった。そして逃げ帰った塒の中、恐ろしい妖狐は自らの身体を見下ろしてため息を吐いた。
俺の腕はこんなにも毛深く、爪は人を引き裂くことに長けている。口は左右に大きく裂け、舌は人の血を吸い過ぎて赤く染まっている。いくら美男に化けたところで、所詮、俺の本性は化物だ。満ちた月の光、化け剥ぎの月光の下では、この醜い姿をさらしてしまう。
今まで一日も欠かすことのなかった人喰いをやめ、化喰は七日七晩ひたすらに悩み続けた。もう一度あの美しい娘に会いたい。人として彼女を愛したい。こんな俺を他の名のある妖怪共が見れば、なんと言って嘲笑うだろうかと化喰は自嘲したりもした。しかしそんな妖怪共は知らぬのだ、この愛と呼ばれる感情の尊さを。ああ、どうすれば、どうすれば……。
そして八日目の朝、化喰はとうとう自らの化物としての姿を捨て去り、非力な人間として生きることを決意した。