第二話
初めて袖を通す制服。初めての校舎、初めての教室。周りを見渡してみても、知らない人ばかり。
新鮮なはずの環境の中で、わたしは一人苛立ちを覚えていた。
入学式まで、あと三十分。先生が来るのを待つ間、わたしは自分の席に座り、前の席の椅子に貼られた名前のシールを睨んでいた。
『野村紘平』。
わたしと同じ姓、彼と同じ名。
橋本紘平と別れ、四年以上の月日が流れた。わたしは、未だに彼のことを忘れ切れずにいた。
中学では、好きかもしれないという人はいた。しかし、誰かを意識する度に彼を思い出し、比べ、物思いに耽ってしまう。そして結局、他の人に本気で恋をすることは叶わなかった。彼への気持ちに終止符を打とうとしては打ち損ね、ズルズルと引きずってきてしまった。
だがそれでも、ずっと彼を盲目的に好きでい続けたわけではない。一途という言葉はあんまり好みでない。徐々に、部活や勉強で忙しくなるにつれ、彼を思い出さない日も増えてきた。わたしの中で彼のことは「思い出」になり始めたのだ。
言うならば中学時代わたしは、恋に恋していたのだ。小学生の時は、本当に彼が好きだった。時が経ち、当時の感情が懐かしくなった。同じ気持ちをもう一度味わいたい。片思いでいいから、本気で恋をしたい。そんなふうにも思っていた。
いつまでもうじうじと彼にとらわれている自分に、だんだん嫌気がさしてきた。高校生になったら、彼のことはすっぱり忘れ、新しい恋をするんだと決めていた。
なのに、なぜ、このタイミングで彼の名が出てくるのか。別に、同じ名の男子生徒が憎いのではない。ただ同じ名というだけで彼のことを思い出し、いちいち憂えてしまう自分に腹が立つのだ。彼の面影を探したところで、どうせ本人には会えないのだから。
不意に、ガタッと、前の席の椅子が引かれた。男子生徒が腰を下ろす。野村紘平が登校してきたようだ。
橋本紘平のいない現実に久しぶりに寂しさを覚え、目を伏せる。彼は今、どこで何をしているのだろう。
「美緒?」
突然名前を呼ばれ、驚いて顔を上げる。このクラスに知り合いはいなかったはずだ。
前の席に座る男子生徒と間近で目が合う。野村紘平……なのだろうか。彼は不躾な目でわたしをじろじろ見て、そしてパッと笑った。
「やっぱり美緒だ。久しぶりだな」
誰ですか。
「えっ……と?」
「俺のこと覚えてる? 覚えてるよな。忘れたとは言わせねぇよ?」
ごめんなさい、わかりません。
わたしの表情から察したのか、野村紘平は、
「わからない?」
と寂しそうに尋ねた。
そこで、改めて野村紘平をじっくり見てみる。座っているためによくわからないが、身長はおそらく男子の平均くらいはあるだろう。声は低く、聞き覚えはない。これといった特徴のない平凡顔。ここまででピンとくるものは特になかった。だけど、ただ一つだけ、左頬のホクロは知っている。
「……紘平?」
これは、橋本紘平のホクロだ。
「せーかい! また会えて嬉しいよ、美緒ちゃん」
この人好きのする笑顔は、橋本紘平のものだ。
「……紘平」
「うん、紘平くんだよ。……どした? 四年ぶりの再会に感動しちゃった?」
「いや、」
「なんだ、違うの」
「もっと、感動するものかと思ってた」
「は?」
橋本紘平との再会は、ずっと夢見ていた。しかし、いざ彼を目の前にしてみても、もちろん驚きはしたが、胸中は案外落ち着いていた。自分でも意外だった。
「紘平、変わったね」
きっと、それが原因であろう。記憶の中の彼と、目の前の少年が一致しないのである。
「まあね。成長期だもん」
「誰だか、全然わかんなかった」
「そういう美緒だって変わったよ」
「そう……かな。中学から、あんまり身長伸びなくなったんだけど」
「いや、身長じゃなくてさ、」
そこで彼は一旦言葉を切り、視線をすっと下げた。
「胸とか」
ちょうどお茶を飲んでいた隣の席の男子が、盛大にむせて咳き込んだ。
「それ、セクハラだから」
軽く睨みつけてみても、「冗談だって」と彼は悪びれる様子はない。
「あれ、でも、苗字……」
そういえば目の前の彼は、橋本紘平ではなく野村紘平だ。わたしの呟きに、彼は「苗字?」と首を傾げた。そして、あぁ、と頷く。
「俺、橋本だったもんね。それはさ、」
「はい、みんな、名簿順に自分の席について」
彼が説明を始めたところでタイミング悪く先生が入ってくる。彼は「後でな」と言って前を向いてしまった。
その後入学式が行われ、教室に戻ってからは学校説明や自己紹介と続き、放課となったのは午後四時過ぎだった。
「入学式も、案外疲れるな」
立ち上がって伸びをしながら紘平は振り向いた。
「ね、ただ座ってただけなのに」
肩の凝りを感じ、揉んでみる。長時間同じ体勢でいるのは、結構ストレスになる。
「なぁ、帰り、バス? 電車?」
「電車」
「じゃあ、駅まで一緒に行こうよ。俺もそっち方面なんだ」
「そっちって、歩き?」
「うん。俺、地元住民ですから」
こんなに近くに住んでいたのかと、拍子抜けしてしまった。電車で三十分。会おうと思えばいくらでも会える距離だった。
「あ、でもごめん。わたし、友達と帰る約束してるから」
「いいよ、一緒に帰って。あたしは他の子と帰るから」
突然、背後から会話に割り込む声がした。中学で知り合った友人の、小倉絢奈だ。いつからいたのだろう。
「アヤ、」
「二人で帰りなよ。その代わり、美緒、夜メールするね」
わたしは、絢奈がニヤァッと笑ったのを見逃さなかった。
紘平に向き直った絢奈は、得意の営業スマイルを浮かべた。すると、なぜか紘平も対抗するように笑みを作った。……なんだか気持ち悪い。
「どうも。美緒の友達の小倉絢奈っていいマス」
「どうもどうも。同じく友達の野村紘平デス」
「へぇ、お友達。ちなみに、どんなお友達? ずいぶん仲が良さそうだけど」
「ただの友達だよ。小学校時代の。俺が転校しちゃって離れ離れになってたんだけど、さっき感動的な再会を果たしたんだよ。な、」
紘平に同意を求められるが、わたしはそれどころではなかった。
「転校……」
絢奈は顎に手をあて、何か考えるようにつぶやいた。
「野村くん、だっけ? もしかして、美緒の小学校に転校してきて、それでまた別のとこに行っちゃった?」
「アヤ!」
そう、絢奈には、紘平のことを話したことがあるのだ。
いきなり話を遮ったわたしを、絢奈はニヤニヤしながら、紘平はキョトンとして振り返った。
「あ、何? 俺の話、聞いたことあった?」
「ええ、さぞ、感動的な再会だったでしょうね」
オホホ、と高笑いする絢奈を押しやる。このままだと、余計なことまで話されそうだった。
「アヤ、もう、いいから」
「はいはい。美緒、またね。今夜、やっぱり電話する。野村くんも、バイ」
「おぅ、またなー」
絢奈はわたしたちに手を振ると、あっさり去って行った。
「ひょっとして、勘違いされた?」
「アヤは面白がってるだけだから気にしないで」
「ふぅん。じゃ、俺らも帰るか」
「そうだね」
リュックを背負い、一緒に教室を出る。並んで歩いていると、ちらちらと、紘平からの視線を感じた。
「何?」
「え、あぁ、いや。……俺、美緒より背が高いんだなぁと思って。まさか、見下ろす日が来るとは思わなかった」
わたしだって、紘平を見上げるなんて考えたことなかった。
「そうだね。紘平、あの頃はこんなだったのに」
へそのあたりで手のひらを水平に寝かせる。
「そんなに小さくなかったよ! このくらいはあったって」
紘平はわたしの手を掴むと、肩くらいの位置まで引き上げた。
「嘘だ、サバよむな。せいぜいこんなもんだよ」
わたしは手を胸元まで降ろしたが、正直、当時の紘平の身長なんてどうでもよかった。それよりも、彼に掴まれた左手が熱い。彼の手は簡単にわたしの手を包み込めるほど大きくて、堅くて、どこかゴツゴツしていて、男なんだと意識せざるを得なかった。トクトクと心拍数の上がりだした心臓が煩わしい。
わたしが好きだったのは、小学生の橋本紘平なんだ。なにもわざわざ、高校生の野村紘平まで好きになることはないんだ。
いくらそう思っても、胸の疼きはなかなか治まらなかった。
駅へ行く前に、わたしたちは本屋に立ち寄った。わたしの好きな作家の新刊が、先月から発売されていたのだ。
目的の本を手に取りレジに向かおうとしていると、書棚の前で何やら悩んでいるようすの紘平が目に入った。
「何か買うの?」
尋ねると、彼は二冊の本を抜き取った。
「これかこれのどっちかを買いたいんだけど、どっちにしようかなって」
「あ、わたしこの本持ってるから、よかったら貸すよ?」
「おっ、マジで? さんきゅう」
「その代わり、紘平はこっち買ってよ。読んだらわたしに貸して」
「おっけー、そうゆう条件な」
紘平が迷っていた本は、わたしも読みたいと思っていた本だった。本の趣味は合うのかもしれない。
本屋を出ると、駅までゆっくり歩いた。
「美緒って、本好き?」
「うん、割と。小説しか読まないけど」
「俺もそうだよ。……そういえば、初めて会ったのも図書室だったよな」
その図書室は、わたしが彼に恋心を抱くきっかけになった場所でもある。
思い出を共有することで、目の前の紘平が記憶の中の紘平と重なっていく。当時の感情が、蘇ってくる。
「……よく、覚えてるね」
「あの時、美緒の苗字が俺と同じだったから、特に印象に残ってたんだよ。あ、苗字の話、まだしてなかったな」
紘平は小さく身をよじって続けた。
「俺、元々は野村だったんだ。だけど、親が離婚しちゃって。それで、母さんの旧姓の橋本になったの」
「離婚……」
よく聞くが非日常な単語に息を呑む。いつも明るかった紘平に、両親の離婚なんてタグはどこにも見あたらなかった。
しかし彼は笑った。
「離婚って言っても、すぐにヨリ戻して再婚したんだけどね。だったらもっとよく考えてから離婚しろって話だよなぁ」
「じゃあ、わたしの学校に転校してきてたのって、」
「あぁ、母さんたちが離婚してた間だよ。再婚したから、また前の学校に戻ったんだ」
「そう、だったんだ」
紘平とは結構仲が良かったつもりだったけど、わたしは彼のことを何も知らなかったのだと思い知らされた。
「美緒、何も訊いてくれなかったよな」
「え?」
「転校の理由とか。そんなに、俺に興味なかった?」
「そういうんじゃないよ」
もちろん興味はあった。すごく、気になっていた。だけど……。
「訊いたら、話してくれた?」
「……さあ、なぁ」
彼は、誰に何を訊かれても、転校の理由だけは教えなかった。いつも「家庭の事情」と、曖昧な返答ばかりしていた。わたしは盗み聞きしようとしていたわけだが、突き放された感じがして悲しかった。
だけど今、紘平はわたしに話してくれた。単に彼の中で整理がつき、それほど重要性をもつ話ではなくなっただけなのか。それともわたしに対して気を許してくれているのか。……後者が含まれていたら、嬉しい。
「じゃあな、また明日」
「うん、バイバイ」
駅の前で、紘平と別れた。今度は、確かな「また」がある別れだ。
去っていく、わたしより大きな後ろ姿を目で追う。待って、と呼び止めたくなる。心が彼を求めている。好きなのだ。苗字が変わろうと、容姿が変わろうと、紘平は紘平だ。ずっと、追い求めていた。
曲がり角の前で彼が振り返った。まだ動かないでいたわたしに驚いたようだったが、彼は笑うと、手を振った。わたしも振り返し、彼の姿が見えなくなってもしばらくその場に佇んでいた。