第一話
ゴールデンウイークが明け四日振りに学校に来ると、校庭の桜は緑の葉が茂っていた。そんな爽やかな光景の一方で、しばらく掃除をしていなかった体育館の床はなんだか埃っぽかった。
わたしの通う小学校では、毎月第一火曜日に全校集会が開かれる。今日がその日だ。
「それでは最初に、転入生の紹介をします」
久しぶりの転校生の紹介に、周囲がざわつき始める。五年生なんだって、という声も聞こえる。
同じ学年となれば、わたしも興味が湧いた。首を伸ばし、ステージ側を見やる。ちょうど、転校生らしき男の子が五年一組の担任の須藤先生に促されながら登壇するところだった。
正直に言えば、この時のわたしは、なぁんだと期待はずれにがっかりしていた。なぜならその少年は背が低く、二、三年生くらいにしか思えなかったからだ。
しかし、噂は案外正確なものである。
「東部小学校から来ました、橋本紘平です。今日から、五年一組に転入します。よろしくお願いします」
彼は高い声を張り上げるようにして自己紹介し、腰を九十度に折って礼をした。その挨拶は堂々としたものだった。
「ちっちゃくね?」
「小させぇな」
「カエルみたい」
周囲のコソコソ話す声を聞き流しながら、わたしは橋本紘平への興味を失っていった。彼は五年一組。わたしは五年二組。特に関わることもない。
わたしの彼への第一印象は、どチビな転校生、で終わった。
それからつまらないほど平穏な日々が流れ、七月のある日、そんな日常に変化を来す出逢いがあった。
この学校では掃除は週三回、昼休みの終わりの十五分となっている。今年度一学期のわたしの掃除場は図書室だった。
わたしは、この図書室の掃除が気に入っていた。早めに図書室へ行き、掃除班のみんなが来るまで好きなだけ読書をしていられるからだ。友達と遊ぶのはもちろん楽しいが、一人で本を読む時間もまた好きだった。
そんな感じで、今日も早々に友達との遊びを抜け出して図書室に向かった。書棚から読みかけの本を抜き出し、閲覧室へ移動する。
昼休みに図書室へ来る生徒は、ほぼ固定化される。六年生の男子が一人。四年生の女子が二人。三年生の女子が一人。カウンターには日替わりで担当の図書委員がいて、やはり読書に耽っている。いつもはそんな感じだった。
だが今日は六年生の男子はいなくて、代わりに一年生らしき子たちが数人騒いでおり、そしてさらにもう一人見慣れない顔があった。
橋本紘平がいた。
彼は隅っこの机に座り、本を開いていた。
何とはなしに、わたしは彼を見つめていた。そういえば、彼が一組の生徒といるところをあまり見たことがない。わたしのクラスの男子とは結構仲が良いようで、たまに彼の話を聞くけれど。
新しいクラスに、まだ馴染めていないのだろうか。だから、今こうして一人で図書室にいるのだろうか。
そんなことを思っていると、不意に彼が本から顔を上げた。目が合う。彼に対し余計な心配とされることを考えていただけに、動揺してしまう。後に知ったことだが、事実彼はただの読書好きだった。
彼は、そのままわたしから視線をそらさなかった。心を読まれたような気がして気まずくなる。彼の視線を無視するのも決まりが悪い。
仕方なく、わたしは彼の座る机の傍まで寄った。
「ここ、座っていい?」
この時のわたしは、我ながらいい言い逃れをしたと思う。実際、他の机には一年生の子がまばらに座ったりしていて、落ち着かなそうだった。
「いいよ」
彼は頷き、そして
「二組の人だよね?」
と尋ねた。
「えっと、俺、五月に転校してきた橋本紘平っていうんだけど……」
「うん、知ってるよ」
わたしの言葉に、彼は少しホッとしたように笑った。
「同じクラスのみんなは覚えたけど、二組はまだ名前とかわかんなくて。でも顔は見覚えあったからさ」
「あぁ、わたし、野村美緒ってゆうの」
「野村……?」
「うん、ほら、名札」
胸元の名札をつまんで示すと、彼は「のむらみお」と復唱した。
「この学校ってすごいよな。みんな名札つけてる」
彼はなぜか感心したように言った。
「前の学校は名札をつける習慣がなかったから、こっち来てびっくりした」
「へぇ、いいなぁ。わたし、校内にいるときはいいんだけど、外では恥ずかしいから一々はずしてるんだ」
「俺は逆に、つけたまま洗濯しちゃう」
彼の胸元を見ると、名札にマジックで書かれた「橋本紘平」の文字は滲んでいた。洗ってしまったようだ。クスッと笑うと、彼も照れたように笑みを返した。
「そうだ。ちょっとついてきてよ。面白い本見つけたんだ」
彼は立ち上がると、わたしを手招きした。今日は本を読む気分でもなくなってしまったので、素直に彼に従う。
彼が案内したのは、わたしが普段利用しない書棚だった。ここにはどんな本があったかなと考えていると、目的の本を抜き取った彼がニヤリと笑った。そして、その本をわたしの眼前に掲げる。
「わ、ちょっと、ヤダ、やめてよ!」
まずわたしの視界に飛び込んだのは、本の題名ではなくその表紙絵だった。裸の女の子の絵だったのだ。
『女の子の心と体』。保健的な内容の本であって、決してイヤらしいものではない。それはわかっていた。普段のわたしなら、表紙絵だけで騒ぎ立てる者を内心でバカにする余裕があったはずだった。
なのに、この時わたしはその本を見せられたらことが妙に恥ずかしく、ドキドキしていた。
わたしの反応に満足した彼は、笑いを噛み締めながら本を片付け、閲覧室に戻っていった。そんな小さな彼の後ろ姿を見届けながら、わたしは胸に手を当て、早い鼓動を打つ心臓を押さえようとしていた。
動揺したのは、ただ単純にあの表紙絵によるものだけではない。
一つに、女扱いされたこと。クラスでも地味な方のわたしは、男子からあのようなからかいを受けることがめったになかった。
それから、二人きりだったこと。距離が近かったこと。本を見せる直前の、悪戯っぽく笑った彼の顔が浮かぶ。左の頬骨の下にホクロがあったことまで覚えている。
男子ってガキなんだから。そう言ってしまうのは簡単だ。しかしその「ガキ」の行動に素直な反応を示してしまったわたしは、もう何も言い逃れができなかった。
その日からわたしは、悶々とした日々を過ごさなければならなくなる。彼のことが気になってしかたないのだ。校内で見かければ、決まって目で追ってしまうのだ。
彼のことが好きなのか。何度も自問しては、否定し続けてきた。だって、彼はどチビだから。わたしより十センチ以上も背が低いのだ。顔だって、かわいいと言えなくもないが、かっこよさの欠片もない。わたしはまだ小学生だったけど、いや、小学生だからこそ、「恋愛」というものに憧れと理想を抱いていた。彼は、その理想から大きくかけ離れていた。
だからきっとこれは恋ではない、と自分に言い聞かせた。
曖昧な想いを抱えたまま、夏休みを迎えた。
一か月彼に会わない間も、思い出すのはあの日の図書室でのやりとりや、その後廊下ですれ違った時に交わした言葉だったり。
もし夏休み明け、彼が背が伸びてかっこよくなってたらどうしよう。そしたら、好きだってことにしてもいいんじゃないか。あぁ、でも、他の子たちからもモテだしたら嫌だなぁ。
そんなバカみたいなことも考えたりした。
後日、断言する。この時からわたしは、否、図書室で出逢った日から、わたしは彼に恋をしていた。
夏休みが明けたが、彼の背が伸びているということはなかった。むしろ、わたしの背が伸びたのか、身長差が開いたようにも感じる。
「でさ、こうするとこことここが同じになるだろ?」
「う〜んと……。こうしなくても、こっちに補助線引けば早いんじゃない?」
「……あっ、すげー! さすが美緒」
二学期、わたしと彼の距離は縮まっていた。
今学期から算数の授業形態が変わったのだ。一、二組混合で習熟度別に基本、標準、発展の三クラスに分けられ、わたしと彼は同じ発展クラスになった。担当の先生がグループ活動なんかを重視する人で、難しい問題や公式の意味を考える度に、隣の席の人と意見交換をして協力して答えを導くよう課題を出すのだ。そしてペアごとに考えた解法をみんなの前で発表させられる。これは案外思考力の向上に役立つ。まずは自分で考える。次に他者の意見を聞くことで、考え方に幅が生まれる。さらに自分の意見を伝えるのは、深く理解するということに繋がる。
この活動で、ペアとなるわたしの隣の席の人が、彼なのだ。
「今日、どっちが発表する番だっけ」
「わたしこの前やったばっかだから、紘平だよ」
「俺かぁ。美緒、もう一度手順説明して」
身長の関係で上目遣いに見られ、ドキッとする。慌てて顔を逸らし、ノートを彼の机に置いて「発表の際の手順」を説明する。
彼は、「考えること」に関してはピカイチだ。難しい問題でわたしが諦めてしまっても、執念深く答えを導き出す。しかし、言ってしまえば彼は要領が悪い。解法がどうも回りくどいのだ。そんな彼の解法をわかりやすく簡潔にまとめるのがわたしの役割でもある。
彼の意識をノートに集中させたくて指で指し示しながら話しているのに、彼は相槌を打つ度にわたしの顔を見やる。やめてほしい。頬が紅潮しているがわかってしまう。
「おっけー、カンペキ。任せとけよ」
一通り説明すると、彼は親指を立てて笑った。わたしの好きな笑顔だ。そしてわたしはこの瞬間が好きだった。二人で考え出した解法を、みんなに発表なんてしたくない。二人だけの共有物として残したい。そう思うくらいには、彼自身のことも好きだった。
彼との交わりは、算数だけではなかった。
担任の先生がどこかからか百人一首を教室に持ってきたのだ。どんなに天気が良くても教室から出ないインドア派のわたしは、同じインドア派の友人たちと昼休みにその百人一首で遊ぶようになった。和歌に興味のないわたしたちは、かるたより、坊主めくりをして遊んだ。
すると、たまたま二組に来ていた彼が坊主めくりに参加するようになったのだ。そしていつからか、わたしと彼は遊び友達になった。
彼は毎日昼休みに二組の教室へやって来た。わたしたちと坊主めくりやかるたをしたり、または男子と手作りの将棋を指したりしていた。
この頃になると、わたしはもう彼のことが好きだと認めざるを得なかった。例えば算数の授業の合間にたわいのないことを話したり。例えば坊主めくりで隣に座った時に肩が触れたり。そういうことが一々嬉しくてどうしようもなかった。
一度好きだと自覚してしまうと、それからはどんどん彼にハマっていった。相変わらず背は小さいままだしガキだし、彼のどこが好きなのか、自分でもさっぱりわからなかった。でも、好きなものは好きなのだ。
本当に、本気で、彼のことが好きだった。今までに異性に抱いたことのある感情とは、深さが格段に違った。学校から帰るのが寂しくて、家にいてもつまらなくて、学校に行くのが楽しみになった。彼のことを想うと心がざわついて落ち着かず、楽しいような、嬉しいような、悲しいような、泣きたいような、いろんな感情が入り混じった。初めての感覚だった。
少なくとも、彼の方もわたしに好意はあったと思う。算数の時間に会話をする彼はなんだか楽しそうだったし、坊主めくりの時も隣同士になる率が高かったように思う。廊下ですれ違えば軽くど突かれて、そこから鬼ごっこを始めたりと、しょっちゅう戯れていた。
彼にとっては「友達」でしかなかったわけだけど、それでよかった。それだけで十分満ち足りていたのだ。
本当に、ずっとこのままでいてくれればよかったのだけれど。
状況が暗転したのは十一月の上旬のころだった。立て続けに姫を引いて集めた札を、たった一枚の坊主で全て失ってしまったのだ。
「紘平、また転校するんだって」
同じクラスの、彼と仲の良かった将棋仲間の男子が話しているのを聞いてしまった。
瞬間、わたしは視覚と聴覚にシャッターを降ろした。
嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。信じたくない。信じない。最後まで信じなければ彼は転校なんてしない。そんなふうに思った。……バカだ、わたし。
せめて、彼の口からそのことを聞きたかった。だから、彼が話してくれるまで、私からは何も訊かないでいようと決めた。
しかし彼から真実を聞くことは叶わなかった。算数は席替えをして離れてしまった。昼休みは、彼は二組へ来ても男子と将棋ばかりしていた。……そろそろ坊主めくりも飽きてきた。
廊下で繰り広げられた鬼ごっこも、彼の転校が近づくにつれ頻度が落ち、最後の一週間はすれ違っても目も合わせてくれなかった。わたしたちの間には、男女の壁が厚く立ちはだかっていた。
彼の転校前日、登校すると、一枚の色紙が回ってきた。転校する彼へ寄せ書きを作ろうというものだ。色紙は鉛筆で薄くクラスの人数分に区切られていて、既に半分以上は埋まっていた。
ペンを手に持ったものの何と書いたらよいかわからず、みんなの書いたメッセージに目を通してみる。半年しかいなかった彼と関わりを持たなかった人がほとんどで、その人たちは「次の学校でもがんばってね」とか「元気でね」など、似たり寄ったりの当たり障りのないことを書いている。昼休みをいつも教室で過ごしていた人たちは、彼との思い出が多い。
とりあえずわたしは「一緒に遊べて楽しかったよ」と書いた。これだけでは短いかと思い、悩んだ末に「ありがとう」とだけ付け足した。「頑張って」も「元気で」も、書きたくなかった。むしろ、転校先でうまくいかなくて困ればいいと思った。そして、また戻ってくればいいと、本気で思っていた。
その日、六時間目の授業は潰れ、学年で彼の送別会もどきが開かれた。ただクラス対抗でドッチボールをして遊んだだけなのだが。その時間も彼は男子に囲まれていて、遂に話しかけることはできなかった。
何も話せないまま放課後になった。最後に一目、もう一度彼を瞳に映して帰りたいと思い隣のクラスへ向かったが、既に彼はいなかった。
校舎を出ると、スクールバスで通っていた彼は、校門前のバス停にいた。
わたしは足を止め、夕闇に一人佇む彼を眺めた。すると彼はわたしに気づき、ニコッと笑んだ。そして相変わらずの高い声で
「じゃあな、美緒!」
と叫んだ。
手を振ろうと思って持ち上げた右手を、中途半端な位置で止める。彼は、手を振らなかった。ギュッと、指先を握り込む。
「バイバイ」は嫌だ。「またね」なんて保証はない。彼と同じく「じゃあね」と返そうとしたのに、声が出なかった。
どうすることもできなくて、わたしはただ唇を噛み締めた。
薄暗くなった空の下、近視の進んだわたしの目には、彼の姿はぼやけてしか映らなかった。